RC Succession
さようなら忌野清志郎
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忌野清志郎さん:
竹中直人、三宅伸治 仲間が語る「唯一無二の清志郎」(その1)

 これほど愛されたロック歌手はいないだろう。今月2日に亡くなった、忌野清志郎さん。大学時代から親交を深めた俳優の竹中直人さんと、RCサクセション時代から共作共演を重ねたギタリストの三宅伸治さんが、ロックを体現した「唯一無二の清志郎」を語った。【鈴木梢】

 「あの武道館は生涯で最高に感動して、開演前から震えました」。清志郎さんと舞台に立った三宅さんが言う。

 清志郎さんは06年、喉頭(こうとう)がんのため闘病生活に入り、08年2月の日本武道館でのライブ「完全復活祭」で活動を再開した。その日、清志郎さんは「雨あがりの夜空に」のサビを別のフレーズで歌った。

 雨あがりの夜空に吹く風が 早く来いよと俺(おれ)たちを呼んでいる

 三宅さんは、「おれ」でなく「おれたち」と表現した清志郎さんの強い仲間意識に胸打たれた。「ボスの声はとんでもなくすごかった、最後の最後まで。本場のソウルシンガーも比じゃない、やっぱり世界一じゃないかって」。ファンはみな、完全復活を確信した。

 竹中さんは大学時代、自ら撮影していた8ミリ映画に出演してもらったことから清志郎さんとの付き合いが始まった。だが、撮影中にカメラが壊れて映像は残らなかった。がっかりする清志郎さんの姿が忘れられず、94年の監督映画「119」で音楽を依頼、日本アカデミー賞最優秀音楽賞に輝いた。

 清志郎さんと出かけた居酒屋での出来事を、三宅さんが思い起こす。「お客さんのだれかが突然ギターを持ってきて、困ったなと思った。だけど、ボスはどんな曲がいいかなって聞いて、『多摩蘭坂』を歌い出したんですよ」

 「自分が語っていいのだろうか」とうつむき、竹中さんは続けた。「ステージではギンギンですけど、普段は本当に静かで優しい。偉大とか、そういう言葉の中に存在していないように思う。照れくさくてそんな話、したことないけど、反体制とか社会派とかいう次元でもなく、そんなこと思って作ってないんじゃないかな。メッセージ性がある歌でも、あの声と魂で歌われると説教臭くならない。清志郎さんの歌は僕にとって、すべてラブソングですから」

     ■

 清志郎さんはがんの告知後も、竹中さんのラジオ番組に出演した。「病気を知り、本当に暗いニュースばかり見ていた。でも、戦争とかと比べたらおれなんて大したことはない」と話した。ファンに向けたメッセージを、自らのホームページでつづった。

 「何事も人生経験と考え、この新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念できればと思います。またいつか会いましょう。夢を忘れずに!」

 復帰最初の仕事も、竹中さんのラジオ番組だった。放送で、「おれ、がんじゃなかったかもしれないな」という言葉さえ聞かれた。回復を祝い、都立日野高校の同級生で共にバンドで活動した俳優の三浦友和さんと3人で食事した。その時撮影した3人の写真は、携帯電話の待ち受け画面としていつも竹中さんの胸ポケットにある。

 昨年7月、腸骨へのがん転移で再び治療に専念。ホームページで、再びファンに呼びかけた。「もう一度言おう 夢を忘れずに!」

 清志郎さんは努力で夢を手にしてきた。

 92年のソロアルバム「メンフィス」に収めた「MTN」で、清志郎さんは「僕は歌を書くのさ MEMPHISの街の 名誉市民の僕だから」と喜びを表現した。清志郎さんはあこがれのソウルの巨匠、オーティス・レディングの本拠地、米メンフィスでレコーディングし、名誉市民となった。

 三宅さんは思い返す。「ボスがいう夢は絵空事ではなくて、具体的に形で示してくれた。絵を描く娘の夢もすごく応援してくれました。今年の春、娘の展覧会をご家族で見に来てくれたそうです」。それが、清志郎さんにとって最後の外出になった。

2009518


忌野清志郎さん:
竹中直人、三宅伸治 仲間が語る「唯一無二の清志郎」(その2止)

 「日本人は音楽を大事にしてないと思う。だから街の雑踏なんかにかき消されちゃう」(87年、毎日グラフで清志郎さん)。2人に会った帰り道、新宿駅を降りると、追悼特集をするCD店の野外スピーカーから清志郎さんの曲が流れていた。いつもの歌声が夜空を突き抜け、雑踏の街の騒音をかき消した。

 ◇朔太郎に通ずる「エロ」と「比喩」--評論家・吉本隆明さん


 詩人で文芸評論家の吉本隆明さん(84)は80年代、清志郎さんのライブに熱中し、通い詰めた。

 「歌を批評することはできない、僕は音痴だから。でも音痴なりに、声の親しさ、柔らかさがあって魅力的だということは分かる。分からないのは身体的動作というか、ステージ上での動きです」

 マントを脱ぎ捨て、マイクを振り回す。ステージ上の清志郎さんは、吉本さんをも悩ませる。

 「この人は真剣に動作の端々に至るまでよく検討し、頭の中で十分形作られていて、まるで無意識かのように舞台で自然に見せる。それができる人はまれで、修練は大したものだ」

 音楽評論家の渋谷陽一さんに紹介され、清志郎さんの存在を知った。吉本さんは84年、著書「マス・イメージ論」で、清志郎さんの「三番目に大事なもの」「キミかわいいね」の歌詞を通して、風刺や暗喩(あんゆ)について論じている。

 吉本さんは詩人として、清志郎さんの歌詞は現代詩を切り開いた萩原朔太郎の系譜と位置づける。

 「日本語の詩は、情緒に訴える方が分かりやすい。島崎藤村以降の叙情的な近代詩の流れが変わったのは朔太郎の出現で、情緒のよさで通り抜けてしまう空疎なところを性的な比喩でふさいだ。それが、清志郎にもある」

 朔太郎の詩集「月に吠える」から「くさつた蛤」の冒頭。

 半身は砂のなかにうもれてゐて、

 それで居てべろべろ舌を出して居る。

 清志郎に通底するのも「エロ」と「比喩」だという。

 RCサクセションの代表曲「雨あがりの夜空に」のサビには「こんな夜におまえに乗れないなんて こんな夜に発車できないなんて」とある。

 「独特の柔らかさを含んだ声と歌詞を調和させ、かつ見栄えがする動作をする。それを総合したものが清志郎の魅力で、聴き続けた理由だと思う」

 ◇忌野清志郎(いまわの・きよしろう)

 1951年生まれ。ロックバンド「RCサクセション」を結成し、70年にデビュー。坂本龍一さんとのユニットで話題を呼ぶ一方、反原発やパンクロック風の「君が代」を収めたアルバムが一時発売中止となった。日本語によるロックを確立、魂のこもったボーカルで「ロックの神様」と呼ばれる。

2009518


忌野清志郎さん:追悼映画、ファン熱望で上映決定

 がん性リンパ管症のため2日に他界したロック歌手忌野清志郎さん(享年58)のドキュメンタリー映画「不確かなメロディー」(監督杉山太郎)が23日から、東京・ヒューマントラストシネマ渋谷で追悼上映されることになった。01年公開の同作は、デビュー30周年を迎えた清志郎さんが全国15カ所のライブハウスを回る姿を追ったもの。親友の三浦友和(57)がナレーションを担当している。

 清志郎さんの早すぎる死に、ファンから再上映を求める声が寄せられたため、配給側が急きょ決定。30日からは、東京・シネカノン有楽町2丁目など都内2カ所の劇場でも上映。配給側は「要望があれば、都内以外でも上映することを検討しています」と話している。(スポニチ)

2009516


忌野清志郎さん:遺作CD、6月に発売

 がん性リンパ管症のため2日に他界したロック歌手忌野清志郎さん(享年58)の遺作「Oh!RADIO」が、6月17日にシングルCDで発売されることになった。

 同曲は、大阪のラジオ局FM802のキャンペーンソングとして闘病中に作詞作曲。スガシカオ(42)BONNIE PINK(36)らによる7人組ユニット「RADIO SOUL 20」が歌っている。

 今回CD化されるのは清志郎さんが3月初めごろ、都内の自宅マンションにあるプライベートスタジオ「ロックンロール研究所」で1人で吹き込んだデモテープ。力強い歌声が印象的で、自らギターやベース、ドラム、ハープを演奏し、多重録音した力作だ。

 4日の葬儀と9日に東京・青山葬儀所で行われた本葬で流れ、CD化を要望するファンの声が相次いでいた。清志郎さんのソロシングルとしては05年12月発売の「仕草」以来、通算13作目になる。(スポニチ)

2009515


忌野清志郎さん:
遺作「Oh!RADIO」シングル発売へ 2月制作、ファンの声で

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忌野清志郎さん。08年2月10日の日本武道館コンサートで=西村綾乃撮影

 がん性リンパ管症のため、2日死去した忌野清志郎さんの遺作「Oh!RADIO(オー!ラジオ)」が、6月17日にシングルとして発売されることが15日、明らかになった。忌野さんが歌、ギター、ベース、ドラム、ハープを一人で演奏している。

 「Oh!RADIO」は、大阪のラジオ局「FM802」の開局20周年キャンペーンソングで、ラジオの特色である人と人とのつながりをテーマに、スガシカオさんら7人のアーティストが結成した特別ユニット「RADIO SOUL 20」のために作ったもの。

 シングルは、忌野さんが2月に個人スタジオ「ロックン・ロール研究所」で収録したバージョンで、9日の「葬儀式」(青山ロックン・ロール・ショー)で曲が一般公開され、ファンからの問い合わせが殺到、発売が決定したという。シングル発売は05年12月の「仕草」以来で、ソロ名義では13枚目となる。【西村綾乃】

2009515


New song by recently deceased rocker to debut in June

A new single by rock singer Kiyoshiro Imawano, who died at the age of 58 on May 2, will be released next month, Universal Music LLC has announced.

The song, titled, "Oh! RADIO," was first introduced to the public at his funeral on May 9. Universal Music decided to release the song as a CD single on June 17, in response to many requests from fans.

Imawano wrote the song as a promotional song for "FM 802," an FM radio station in Osaka, and offered it to another artist.

The song to be released is a new version sung by Imawano, which was recorded in February this year. In the song, he also plays guitar, bass and drum.

(Mainichi Japan) May 15, 2009


忌野清志郎さん死去:新曲発売へ

 2日、58歳で死去したロック歌手、忌野清志郎さんの新曲「Oh!RADIO(オー!ラジオ)」が急きょ、6月17日にユニバーサルミュージックから発売されることが決まった。9日に行われた「葬儀式」で初めて一般公開され、CD化を望む声が寄せられていた。

 大阪のFM局「FM802」のキャンペーンソングとして忌野さんが作詞作曲し、他のアーティストに提供した。今回発売されるのは、今年2月にレコーディングされた忌野さんが歌うバージョンで、ギターやベース、ドラムなども自ら演奏している。

毎日新聞 2009515日 東京朝刊


忌野清志郎さん:
ベストアルバムと復活祭が急上昇 DVDも オリコンランキング

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オリコンランキング34位となったベスト盤「入門編」

 12日発表されたオリコン週間アルバムランキング(18日付)によると、2日に58歳で死去したロック歌手、忌野清志郎さんが08年5月に発売したベスト盤「入門編」が34位、08年2月の復活ライブを収録した08年6月発売の2枚組ライブアルバム「忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館」が62位にランクイン。いずれも08年6月以来、最高位を記録した。

 同日付のDVDのランキングでも、「忌野清志郎 完全復活祭」(08年5月発売)が25位、同時期のライブハウスでの映像を収録した「ブルーノートブルース 忌野清志郎 Live at Blue Note TOKYO」(08年8月発売)が30位を記録。音楽部門では「完全復活祭」が9位、「ブルーノート~」が11位だった。

 4作品の発売元のユニバーサルミュージックによると、死去の報を受けて注文が殺到、急ピッチで追加生産に入っているといい、来週のランキングはさらに上昇しそうだ。【細田尚子】

2009512


泉谷しげる:絶叫「いまわの!」師匠に恩返しの熱唱

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忌野清志郎さんの名曲「雨上がりの夜空に」を熱唱中に、感極まったのか手で顔を覆う泉谷しげる=スポニチ提供

 歌手で俳優の泉谷しげる(61)が涙ながらに清志郎さんにレクイエムを送った。10日、都内で新曲「生まれ落ちた者へ」の発売記念ライブを行い、2日に亡くなった盟友忌野清志郎さん(享年58)のRCサクセション時代の名曲「雨あがりの夜空に」を熱唱。「今でも生きている」と死を受け入れない姿勢をあらためて強調したが、あふれる涙に悔しさがにじんだ。

 あの泉谷が泣いた。終盤、「いまわの!」と叫び、名曲「雨あがりの夜空に」がスタート。観客750人も大歓声をあげ、総立ちに。泉谷は観客と一緒になって拳を突き上げ、マイクスタンドを振り回して熱唱した。歌えなくなる場面もあり、途中、何度も手で目を覆い「泣いてんじゃねぇ」と自分に言い聞かせた。歌い終わると「バカ野郎!清志郎」と、また叫んだ。

 公演の中盤には「あいつの歌はキーが高いから大変なんだよ」と話したが、声を振り絞った。全25曲披露したステージの24曲目。恩返しの熱唱だった。

 71年、RCサクセションのファンだった泉谷は東京・渋谷のライブ喫茶「青い森」で清志郎さんと出会った。気に入られて一緒にステージに上がり、同年デビュー。ライブの観客をなじるスタイルは当時の清志郎さんの影響で、この日も「やかましい!」「この野郎!」と叫び続けた。

 「忌野清志郎が亡くなったってニュースが流れているが、違う。今でも生きてます。絶対あいつを殺さない。恩返ししてないのに、あの世に行かせるわけにはいかない。絶対、みんなの前に連れて帰るから」

 亡くなった翌日の3日の会見で「通夜にも告別式にも行かない。冥福も祈らない」と言ったように、前日9日の葬儀式には行かなかった。「これからもずっとライバルとして先輩として。大事なやつなんだ」。年は泉谷の方が上だが、清志郎さんを心から尊敬し「先輩」「師匠」と慕う。

 ステージに上がる前、「雨あがり」について「この曲はしょっちゅう歌ってる」と照れたが、関係者は「だいぶ長い間歌っていない」と証言。追悼歌として天にささげたようだ。(スポニチ)

2009511


忌野清志郎さん:形見の指輪身につけ竹中直人弔辞

 ◆竹中直人弔辞要旨

 清志郎さん、清志郎さん、清志郎さん。僕はきょう清志郎さんに「いってらっしゃい。今まで本当にありがとうございました」と、ただそれだけを言うつもりで来たんですけど、弔辞をお願いしますって言われちゃって。めちゃくちゃプレッシャーです。だからきょうは清志郎さんにもらった指輪をしてきました。昨日の朝はものすごい雨と雷でした。急に外に出たくなり、大音量で清志郎さんの歌を流しながら車を走らせました。ボス、キング、ゴッドいろんな呼び方が清志郎さんにはあったけど、僕にとってはやっぱり清志郎さんです。

 清志郎さん、清志郎さんが残してくれた言葉、声、歌はずっとずっと僕の中で生きています。忌野清志郎は死んでない。ずっとずっと僕たちの中に生きています。ものすごく、ものすごく寂しいけど、そう確信しています。

 清志郎さん、これからの僕たちを見守ってくださいね。見てほしくないときは「しようがないなあ」って言って見て見ぬふりをしてください。でもここだっていう時には僕たちに岩をも砕くエネルギーと勇気を与えてください。ずっとずっと僕たちは清志郎さんが大好きです。ずっとずっとずーっと。清志郎さん、またね。(抜粋)(スポニチ)

2009510


忌野清志郎さん:「この葬儀は最高のライブ」ミッチー

 ◇忌野清志郎さん告別式主な参列者 竹中直人、大竹しのぶ、桑田佳祐、原由子、甲本ヒロト、及川光博、大友康平、坂本冬美、木梨憲武、北川悠仁(ゆず)、吉川晃司、糸井重里、宇梶剛士、オダギリジョー、サンプラザ中野、永瀬正敏、夏木マリ、斎藤ノブ、鶴見辰吾、CHARA、羽田美智子、石川セリ、山崎まさよし、スガシカオ、BONNIE PINK(敬称略、順不同)

 ▼石川セリ(夫の井上陽水とともに長年の友人)私が芸能界に入ろうとしていた頃、尊敬するNHKプロデューサーがRCサクセションが一番だと言っていたことが頭に焼き付いて、そのままカリスマになっていた。素も穏やかですてきで、圧倒され続けながら崇拝してきた。これからも変わりません。

 ▼坂本冬美(91年にユニット「HIS」結成)清志郎さんの歌を聴きながらいろいろと思い出した。あらためて偉大な方とご一緒させていただいたのだと思い、今さらながら声を掛けてもらったことに感謝している。ありがとうございました。清志郎さんは不滅です。

 ▼及川光博(02年にユニット「ミツキヨ」結成)この葬儀は最高のライブでした。こういうふうに派手にやった方が清たんも喜ぶと思う。喪服を禁止してくれたら、派手な衣装で参列したかった。ちゃっかりしててチャーミングな人だった。どんな世界に住もうと、ごきげんな音楽を奏でてほしい。

 ▼鶴見辰吾(清志郎さんを継いで2代目自転車名人)一緒に走ろうと言ってくださったが、結局できなかった。高校生の時から清志郎さんの音楽を聴いて、原発のこととか問題意識を持つようになった。葬儀も人柄が出ていた。

 ▼サンプラザ中野くん(歌手)僕の唯一のロックアイドル。師匠と思っていた方なので、本当にショックです。武道館で見た清志郎さん、一橋大学の学園祭で見た清志郎さんかっこよかった。ラジオ番組に呼んでもらったり可愛がってもらいましたが、好きすぎて、あがっちゃって近寄れませんでした。(スポニチ)

2009510


忌野清志郎さん:ラストライブに4万人超ファン

 がん性リンパ管症のため2日に死去したロック歌手、忌野清志郎(本名・栗原清志)さん(享年58)の本葬となる「葬儀式」が9日、東京都港区の青山葬儀所で執り行われた。サザンオールスターズの桑田佳祐(53)ら音楽仲間のほか、約4万2000人のファンら計約4万3000人が参列。弔問の列が途切れず、過去最大級の葬儀となった。俳優の竹中直人(53)、大竹しのぶ(51)らが弔辞を読み、「ロック界のキング」と別れを惜しんだ。

 生前の歌声が大音量で流れる中、弔問の列が延びた。その距離4・5キロ。最寄りの東京メトロ乃木坂駅と青山一丁目駅から、折り返し地点を3カ所作っても列は続き、近くの青山公園にも待機場所をもうけたほど。式が始まった正午から夕方になっても長さは変わらず、午後10時40分の閉門まで途切れなかった。

 前日の雷雨から一転した雨あがりの空の下、司会者の「忌野清志郎の青山ロックンロールショーにお越しいただきありがとうございます」のあいさつで開始。その声にファンが「ウォーッ!」「キヨシローッ」と叫ぶ姿は、まるで清志郎さんのラストライブ。読経も線香も賛美歌もない。黒白でなく、紅白の幕が祭壇を囲んだ。

 一番乗りは、前日の8日午後10時から並んだ北海道帯広市在住の酪農家(39)。「いまだに信じられない。僕らに夢を与えてくれた忌野清志郎は永遠に不滅です」とロック界のミスターに例えた。

 午前11時の開門から流れ続けた歌は「トランジスタ・ラジオ」「スローバラード」など計46曲。名古屋市の会社員、三浦浩太さん(37)は「友人が4年前、清志郎にあこがれて始めた自転車で事故死した。その時は憎んだけど、残された清志郎のCDを聴いてアイツが好きだった理由が分かったし、いまでは自分も。きょうは3日間かけて自転車で来ました。アイツも天国で清志郎に会えて喜んでいると思う」と話した。

 会場の外には、うさぎ年の清志郎さんが自らデザインしたトレードマークの「ひとはたウサギ」の巨大バルーン(全長12メートル)が登場。年越しライブで使ったコタツや「ザ・タイマーズ」時代のヘルメット、坂本龍一とのヒット曲「い・け・な・いルージュマジック」のポスターなどがにぎやかに飾られた。

 遺影は縦1メートル50、横1メートル20のビッグサイズ。位牌も高さ1メートル以上。横幅16・2メートルの祭壇の前にはステージが組まれ、自宅のスタジオ「ロックンロール研究所」にあるギター、ベース、アンプなど愛用品が並んだ。バックバンドメンバーによる「雨あがりの夜空に」の生演奏もあった。

 午後10時50分、最後に献花したのは都内の主婦(47)。この時点で約200人が居残り、別れを惜しむように「アンコール!」と声をからした。そして関係者と「雨あがりの夜空に」をフルコーラスで合唱し「ボス、愛してます!」と夜空に向かって叫び合った。

 ファンの列に最も感激していたのは、景子夫人(53)、長男の竜平さん(20)、長女の百世さん(17)。自宅に一度帰ったものの「こんなに多くの方が集まってくれて。できる限りお礼を言いたい」と閉門直前に再び訪れ、目を潤ませた。(スポニチ)

2009510


忌野清志郎さん死去:
雨あがりに、ファンお別れ 「ロック葬」4万2000人悼む

 2日に58歳で死去したロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんの「葬儀式」が9日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。ミュージシャンら関係者1000人のほか、ファン4万2000人が駆け付け「トランジスタ・ラジオ」など数々のヒット曲が大音量で響く中、早過ぎる死を悼んだ。

 紅白の幕と色鮮やかな花で飾られた祭壇には、スーツ姿で優しくほほ笑む清志郎さんの遺影が掲げられた。弔辞で俳優の竹中直人さんは「世界中の人に自慢したいです。オレは忌野清志郎と友達なんだぜと。ずっと自慢してていいですよね」と涙声で語りかけ「清志郎さん、またね」と手を振り別れを告げた。

 「アオヤマ・ロックンロール・ショー」と銘打たれ、祭壇前のステージではバンドメンバーらが生演奏。最後に清志郎さんの生前の歌声に合わせ参列者と「雨あがりの夜空に」を歌った。【佐々本浩材】

毎日新聞 2009510日 東京朝刊


忌野清志郎さん:
「またね」「ありがとう」 竹中直人さん、大竹しのぶさんらが弔辞(1/4ページ)

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弔辞を読み上げた竹中直人さん

 58歳で2日に死去したロック歌手、忌野清志郎さんの「葬儀式」が9日、都内で営まれたが、「AOYAMA ROCKN ROLL SHOW」と銘打たれた異色のロック葬となった。

 遺影が飾られた祭壇は紅白の幕や色鮮やかな花で飾られ、ファンクラブの会員でライブイベントでも活躍してきた高橋康浩さんの「フォーエバー、忌野清志郎」の絶叫とともに最後のショーは幕を上げた。祭壇前にはステージが用意され、昨年の「完全復活祭」で清志郎さんと同じステージを踏んだバンド「ナイスミドルWITHブルーデイホーンズ」のメンバーらが生演奏を披露。弔辞は俳優の竹中直人さん、大竹しのぶさんとロック歌手の甲本ヒロトさんが述べた。

 葬儀委員長を務めた石坂敬一・ユニバーサルミュージック最高経営責任者兼会長のあいさつの後、バンドメンバーらが清志郎さんの生前の歌声と「雨あがりの夜空に」を共演。参列者も一緒に歌って終了した。

 弔辞の主な内容は次の通り。

200959


忌野清志郎さん:
「またね」「ありがとう」 竹中直人さん、大竹しのぶさんらが弔辞(2/4ページ)

 【竹中直人さん】清志郎さん、清志郎さん、清志郎さん。きょうは本当にありがとうございますとだけ言うつもりだったのに、弔辞をお願いと言われ、むちゃくちゃプレッシャーです。以前もらった指輪をしてきました。

 ボス、キング、ゴッド。いろんな呼び方が清志郎さんにはあったけど、僕にとってはやっぱり清志郎さんです。お通夜の日、清志郎さんの寝顔をみたけど、別人じゃないかって思ってしまいました。でもとってもきれいな顔でした。とってもきれいな手でした。でもね、清志郎さん、僕たちはまだ信じられない思いでいっぱいです。忌野清志郎が死んじまった。何度も言葉でつぶやいても心の中で思っても、受け入れることはできません。でも本当なんですよね、清志郎さん。大好きな清志郎さん。みんなみんな清志郎さんのことが大好きです。清志郎さんのことが嫌いな人なんて、誰一人としていない。

 僕が中学3年のときに深夜のラジオから独特の歌が流れてきて、なんて独特の声の持ち主なんだ。それが僕にとって清志郎さんとの最初の出会いでした。それからずっと、清志郎さんの音楽は、RCサクセションの音楽は、僕のそばにいました。

 僕はみんなに自慢したいです。オレは忌野清志郎と友だちなんだぜと。世界中の人に自慢したいです。ずっと自慢してていいですよね、清志郎さん。

 僕は清志郎さんに何もしていない。いつも自分のことばかりで。清志郎さんの髪が抗ガン剤で抜け落ちて、また生えてきたとき、清志郎さんは僕に言ってくれましたよね。「竹中には絶対勧められないんだけど、抗ガン剤って、髪が全部抜けちゃうんだけど、そのあとに生えてくる髪が、剛毛なんだぜって」。

 清志郎さん。清志郎さんの残してくれた言葉、声、歌は、ずっとずっとぼくの中に生きています。忌野清志郎は死んでない。ずっとずっと僕たちの中に生きています。ものすごく、ものすごく寂しいけど、僕たちはそう確信しています。

 清志郎さん。僕の母は僕が高校3年生の時に亡くなりました。3年前、母の三十三回忌の時、母のお墓のあるお寺の住職さんがこんなことをぼくに伝えてくれました。「直人君のお母さんは33年間、ずっと直人くんのそばにいて、直人君を見守っていたんだよ。33年たって、お母さんはやっと直人君を離れて、月に帰っていったんだ」。

 だから、清志郎さんはこれから33年間、ずっと僕たちのそばにいてくれるんだと思いました。そして、月に帰っていくんですよね。清志郎さん、これから33年間、僕たちを見守っていてくださいね。

 見てほしくないときは、「しょうがないなあ」って見て見ぬふりをしてください。でもここだっていうときは、僕たちに、岩をも砕くエネルギーと勇気を与えてください。

 清志郎さん、僕たちは清志郎さんが大好きです。ずっと!

 清志郎さーん、(左手を大きく振りながら)またね!

200959


忌野清志郎さん:
「またね」「ありがとう」 竹中直人さん、大竹しのぶさんらが弔辞(3/4ページ)

 【大竹しのぶさん】清志郎さん、今日晴れたよ。沢山の人たちが朝早くから並んで待っています。あの武道館の日みたいに。

 去年の2月、本当にたくさんの人たちがあなたの復活を喜び、夢はかなうものと教えてもらいました。そして7月、あなたの病気の再発が分かった夜、私は空を見ながら、どうぞ1日も早く病気が治りますように、ガンなんてどっかに行ってしまいますようにとお祈りしました。その時、ああ、こうして、沢山のファンの人がこうして私と同じように清志郎さんにすごいパワーを送っているんだなということを感じました。清志郎頑張れ、清志郎絶対戻ってこいって、あなたが言った、夢を忘れずにという言葉と一緒に。だから絶対に治ると信じることができました。そのことをあなたに言ったら、あなたの返信は「LOVE、LOVE、LOVE」でしたね。みんなの愛に応えて、ちゃんと元気になるから、全然大丈夫だよ、待っててねという力強いものでした。

 そしてこの5月、あなたにもう二度と会えないと分かったとき、沢山の人が大きな、とてつもなく大きな悲しみに包まれました。でもそれと同時に、あなたの歌に、言葉に、音楽に、再び命が注ぎ込まれて、私たちの心にずっと生き続けることを確認できた夜になりました。

 あなたを大好きな音楽の仲間たちの手によって、あなたがずっと言っていた、愛と平和の日が1日も早くくるようにリードしていってください。

 昨日、私の友人の(中村)勘三郎さんとあなたの話をしました。彼は「僕はあの人に会わなくてよかったと思う」と言っていました。「会っていたら悲しくて生きられないから。そのぐらいきっとすてきな人だから」と言ってました。本当にその通りです。私なんかより、もっともっと身近にいた人、私なんかよりもっともっと、あなたを愛していた人の悲しみを思うと、言葉もありませんが、でもやっぱり私は、あなたに会えてよかったです。あなたのファンになって本当によかったと思っています。

 時々空の上から「愛しあってるかーい」って問いかけてください。「OK、ベイビー。最高だぜ」って答えられるよう、あなたのように強く、優しく、明るく、楽しく生きていきます。

 清志郎さん、本当にお疲れさまでした。そして本当にありがとう。

200959


忌野清志郎さん:
「またね」「ありがとう」 竹中直人さん、大竹しのぶさんらが弔辞(4/4ページ)

 【甲本ヒロトさん】あなたとの思い出に、ろくなものはございません。突然呼び出して、知らない歌を歌わせたり。なんだか吹きにくいキーのハーモニカを吹かせてみたり。レコーディングの作業中にトンチンカンなアドバイスばっかり連発するもんで、レコーディングが滞り、その度にわれわれは聞こえないふりをするので必死でした。

 でも今思えば、全部冗談だったんだよな。うーん。今日も「清志郎どんな格好してた?」って知り合いに聞いたら、「ステージ衣装のまま寝転がってたよ」っていうもんだから、「そうか、じゃあおれも革ジャン着ていくか」って来たら、なんか、浮いてるし。(笑い)

 清志郎のまねをすれば、浮くのは当然。でもあなたは、ステージの上はすごく似合ってたよ。ステージの上の人だったんだな。

 一番最近会ったのは、去年の11月。それは、ザ・フーの来日公演で。その時、あなたは客席の人でした。そんな一観客としての観客同士の共感を感じ、とても身近に感じた直後、あなたはポケットから何かを出されて、それは、業界のコネをフルに生かした、戦利品とでも言いましょうか、ピート・タウンゼントの使用するギターのピックでした。

 ちっともあなたは観客席の1人じゃなかった。ぼくがあまりにもうらやましそうにしているので、2枚あったそのうちの一つを僕にくれました。これだ。ピート・タウンゼントが使ってたピックです。これはもう、返さなくていいね。ありがとう。一生忘れないよ。

 数々の冗談、ありがとう。いまいち笑えなかったけど。今日もそうだよ、ひどいよ、この冗談は。うん。なるべく笑うよ。

 そんでね、ありがとうを言いにきました。清志郎、ありがとう。それから後ろ向きになっちゃってるけど、清志郎を支えてくれたスタッフの皆さん、家族の皆さん、親族の皆さん、友人の皆さん、最高のロックンロールを支えてくれた皆さん。どうもありがとう。

 で、あと一つ残るのは、今日もたくさん外で待っているあなたのファンです。彼らに、ありがとうは僕は言いません。僕もその1人だからです。それはあなたが言ってください。どうもありがとう。

200959


がん闘病3年、忌野清志郎さん逝く 「ロック葬」でお別れ=佐藤雅昭

 ◇森光子、89歳誕生日に「放浪記」2000回


 ロック界のカリスマ、忌野清志郎(いまわのきよしろう)さんが2日にがん性リンパ管症で亡くなった。58歳という若さ。惜しみて余りある死である。

 2006年7月に医師から喉頭(こうとう)がんの宣告を受けてから闘病生活は3年に及んだ。声帯を傷める可能性がある切開手術をせずに放射線治療を含む対処法を選択。それも完全復帰を信じてのものだったが、がんは腰などに転移。ついに力尽きた。

 高校在学中の1968年にバンド「RCサクセション」を結成し、70年に「宝くじは買わない」でデビュー。派手なメークとメッセージ性の強いパフォーマンスで人気を呼び、「ぼくの好きな先生」(72年)「雨あがりの夜空に」(80年)といった名曲を生んだ。82年には坂本龍一(57)とのユニットで「い・け・な・いルージュマジック」を大ヒットさせた。

 東京・鹿児島間を自転車で走破するなど趣味でも話題を提供しながら、一方では個性派俳優としても活躍。93年に岩松了監督(57)の「お墓と離婚」で映画デビューし、その後もコンスタントに銀幕を彩った。三池崇史(たかし)監督(48)がメガホンをとった「妖怪大戦争」で演じた妖怪の総大将もインパクト十分だった。

 「お墓と離婚」の公開前にインタビューする機会があった。愛用のギターを手にフラリと取材場所に現れた。役どころは墓を購入しようとしている男。富士山が見える霊園に泊まりがけで出掛け、旅館の温泉で湯に漬かるシーンがあった。

 清志郎「あれ、ヤバイとこ映ってないよね」

 記者「いえ、ちらりと映っていたような……

 清志郎「えっ、やっぱり映っちゃってる?」

 こんなたわいもない話で盛り上がった記憶がある。とてもシャイで、楽しい人だった。ちなみにロケが行われた場所はタレントの清水由貴子さんが亡くなった富士霊園。偶然とはいえ、なにか胸が痛くなった。

 01年には清志郎さんのライブツアーを追った「不確かなメロディー」というドキュメンタリー映画が公開。デビュー30周年の節目に杉山太郎監督が全国15カ所のツアーに密着した作品で、ナレーションは都立日野高校時代からの親友・三浦友和(57)が務めた。竹馬の友の死に三浦は「残念です……」とコメントを出すのが精いっぱいだった。

 9日には東京都港区の青山葬儀所で告別式。音楽界、芸能界の仲間だけでなくファンも集う「ロック葬」の趣向だ。にぎやかなお別れに清志郎さんも「ご機嫌だぜ、ベイベー」ときっと天国で笑っていることだろう。

 同じ日、千代田区の帝国劇場は大記録の達成を迎える。ちょうど89歳の誕生日を迎えた森光子の「放浪記」が2000回に到達。61年10月の初演からコツコツ積み上げること48年。とてつもない金字塔は国民こぞって祝福していい数字だ。

 ちなみに単独主演回数として2位につけているのは大阪のシアターBRAVA!で公

演中の松本幸四郎(66)「ラ・マンチャの男」の1131回(8日まで)。3位は93年に亡くなった故山本安英さん「夕鶴」の1037回となっている。

 帝劇公演は29日が千秋楽で、2017回まで数字を伸ばす。今年は東京だけの公演となるが、森にとっては「2000回」も通過点に過ぎない。健康に留意して、ぜひとも2050、2100と突き進んでもらいたい。<スポーツニッポン編集委員・佐藤雅昭>

毎日新聞 200959日 東京夕刊


井上陽水:忌野清志郎さんに涙のレクイエム

 井上陽水(60)が8日、府中市の府中の森芸術劇場で行われた全国ツアー東京公演で、2日に他界したロック歌手忌野清志郎さん(享年58)について触れ「無口でシャイで。若かった。残念です」と早すぎる死を悼んだ。2人は40年前の無名時代からの友人。共作した名曲「帰れない二人」を歌い、最後は感極まって声が出なかった。9日には清志郎さんの告別式が東京・青山葬儀所で営まれる。

 「帰れない二人」を歌ったのは7曲目。40年前のデビュー当時、渋谷のライブ喫茶「青い森」で多くの歌手と出会った中「RCサクセションがいました。一番印象に残ってます。亡くなった忌野清志郎がいたバンドです」と紹介して歌った。

 2人の共同名義による作詞作曲。陽水は69年、清志郎さんは70年のデビュー。ライブハウスで互いの前座を務め、売れっ子だったバンド「モップス」の前座で歌うため一緒に夜汽車で全国を回った仲だった。ある日「僕のアパートに清志郎が来て。当時はケータイもファミリーレストランもない時代。カレーを僕が作って食べたのを思い出します」と振り返った。

 こたつに入って一緒にギターを弾きながら朝まで語り合う様子は「帰れない二人」そのまま。原曲はRCが10年後に発売した「指輪をはめたい」。陽水から「その歌詞じゃ売れない」と言われ、一緒に作り直したのがその夜。陽水のアルバム「氷の世界」に同じく共作の「まちぼうけ」とともに収録され、空前の大ヒットによる数百万円の印税で清志郎さんは苦しい時代をしのいだ。

 陽水は「40年、折に触れて会ったけどいつも無口で。ぶっきらぼうでシャイなんだけど結局やさしい人っているでしょ。彼なりのダンディズムだったのか、不器用というか」と人柄をしのびながらの歌唱。最後は感極まり、歌唱後しばらく客席に背を向けて涙が止まるのを待ったほど。観客からもすすり泣く声が漏れた。

 「どっちがどうやって一緒に作ったのか。昔のことなんで、清志郎の亡くなったいま、確かめるすべもない。まあ、彼も思い出せないでしょうけど」。2人だけの思い出ゆえの深い悲しみが、その言葉ににじんだ。(スポニチ)

200959


忌野清志郎さん:ヒット曲流し「葬儀式」ファン4万2千人

200959 1850分 更新:59 2310

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故・忌野清志郎さんの告別式に列を作る大勢のファン=東京都港区の青山葬儀所で2009年5月9日午後3時38分、本社ヘリから岩下幸一郎撮影

 2日に58歳で死去したロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんの「葬儀式」が9日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。ミュージシャンら関係者1000人のほか、ファン4万2000人が駆け付け「トランジスタ・ラジオ」など数々のヒット曲が大音量で響く中、早過ぎる死を悼んだ。

 紅白の幕と色鮮やかな花で飾られた祭壇には、スーツ姿で優しくほほ笑む清志郎さんの遺影が掲げられた。弔辞で俳優の竹中直人さんは「世界中の人に自慢したいです。オレは忌野清志郎と友達なんだぜと。ずっと自慢してていいですよね」と涙声で語りかけ「清志郎さん、またね」と手を大きく振り別れを告げた。女優の大竹しのぶさんは「時々空の上から『愛し合ってるかーい!』と問い掛けてください。『OK、ベイビー。最高だぜ』と答えられるよう、あなたのように強く、優しく、楽しく生きていきます」と話した。

 「アオヤマ・ロックンロール・ショー」と銘打たれ、祭壇前のステージではバンドメンバーらが生演奏。最後に清志郎さんの生前の歌声に合わせ参列者と「雨あがりの夜空に」を歌った。

 会場外には前夜からファンが集まり、葬儀開始時には長蛇の列ができた。献花が始まっても列は延び続け、ファンの弔問は夜遅くまで続いた。【佐々本浩材】


忌野清志郎さん:
竹中、オダギリらがロックの神様に最後の別れ 「ずっと僕たちの中で生きている」

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多くの人が参列した葬儀

 がん性リンパ管症のため2日、58歳で死去した歌手の忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんの葬儀が9日、青山葬儀所(東京都港区)で営まれた。葬儀は「青山ロックンロールショー」と題され、忌野さんの楽曲やプロデュースした作品などが大ボリュームで流されると徹夜で並んだファンらが大合唱して早すぎる死を悼んだ。

 会場では竹中直人さん、大竹しのぶさん、甲本ヒロトさんが代表で弔辞を読み、忌野さんからもらった指輪を左手薬指に光らせた竹中さんは「オレは忌野清志郎と友だちなんだと世界中の人に自慢したい。ボス、キング、ゴッド、ずっとずっと僕たちは清志郎さんが大好きです。忌野清志郎は死んでない。僕たちの中に生きている。またね」と大きく左手を振った。

 「あなたのファンになって本当に良かった。ときどき空の上から『愛し合ってるかい』って呼び掛けて。そのときに『OKベイビー。最高だぜ』って応えられるように生きていく」と大粒の涙をこぼした大竹さんは会場を出る際、外で待っていたファンらに、忌野さんの決めぜりふ「愛しあってるかーい」と呼び掛け、ファンらから「ウォー!!!」っと声を集めていた。

 告別式には桑田佳祐さん、夏木マリさん・斎藤ノブさん夫妻、オダギリジョーさん、サンプラザ中野さんなど約1000人の関係者が訪れた。所属レコード会社によると、一般弔問は午後1時から約1時間程度の予定だったが、午後6時まで延長することを発表。約5万人を見込み、訪れた人らには祭壇に飾った忌野さんの写真に「イェーッ!!感謝ForYou!」とプリントしたポストカードをプレゼントする。

 テレビ・ラジオでは追悼特別番組が組まれ、NHKは10日に「愛しあってるかい?~キング・オブ・ロック 忌野清志郎~」(午後11時30分)、11日に「SONGS 忌野清志郎ライブ 完全版」(深夜0時45分)を放送。TBSラジオでは、10日に「忌野清志郎 リクエストスペシャル~ぼくらの好きなおじさん~」(午後7時)を放送する。【西村綾乃】

 200959


忌野清志郎さん:スタジオライブ完全版など テレビ、ラジオ各局で追悼番組

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08年2月、復帰ライブで歌う忌野清志郎さん

 がん性リンパ管症のため、2日に死去したロックの神様忌野清志郎さんの追悼番組がテレビ、ラジオ各局で放送される。

 NHK総合では10日午後11時半から「愛し合ってるかい?~キング・オブ・ロック 忌野清志郎~」を、12日午前0時45分から「SONGS 忌野清志郎ライブ 完全版」の2番組を放送。「愛し合ってるかい?」では、70年代からのライブ映像に、生前に交流のあった各方面の人々のコメントを紹介。「SONGS」では、08年2月に放送した最後のスタジオライブ5曲に加え、アンコールの2曲「上を向いて歩こう」と今回初公開の「ダンスミュージック☆あいつ」の「完全版」を再放送する。

 CSの音楽専門チャンネル「MTV」と「MUSIC ON! TV」では9日午後8時から、2時間のビデオクリップを特集、「VMC」では9日午後11時から、ミュージックビデオで振り返る追悼特別番組「忌野清志郎-VIDEOGRAPHY」を放送する。

 ラジオはNHK-FMで8日午後9時10分から、「ミュージックライン 忌野清志郎特集」が放送され、長年に渡って忌野さんの取材を続けてきた音楽評論家の渋谷陽一さんがゲストに登場する。TBSラジオでは10日午後7時から、音楽評論家の萩原健太さんと評論家の山田五郎さんをパーソナリティに迎えたリクエスト番組「忌野清志郎リクエストスペシャル~ぼくらの好きなおじさん」を放送する。

 一般弔問を受け付ける忌野さんの「葬儀式」は9日、東京・青山葬儀場で正午から行われる。【松村果奈】

200958


忌野清志郎:
アルバム、DVDが売り上げ急上昇 4作品がオリコンチャートトップ100入り

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2008年2月10日の日本武道館ライブで、咽頭がんからの完全復活をファンに報告した忌野清志郎さん

 2日にがん性リンパ管症のため58歳で死去したロック歌手・忌野清志郎さんのアルバムとDVDの計4作品の売り上げが急上昇していることが5日、分かった。4作品は、オリコンの今月2日付デイリーランキングでは100位圏外だったが、3日になるとそれぞれトップ100入りした。

 ランクインしたのはベストアルバムの「ゴールデン☆ベスト The RCサクセション ユニバーサル・エディション」(オリコンの3日付デイリーランキング78位)▽「入門編」(同99位)および08年2月に行われた日本武道館公演を収録した「忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館 2枚組ライブアルバム」(同94位)▽DVD「忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館」(同51位)の4作品。

200955


三浦友和:清志郎さんは「尊敬、あこがれ」

 清志郎さんの死から一夜明けた3日、高校時代からの親友で俳優の三浦友和(57)は通夜参列に先立ち、追悼コメントを発表した。清志郎さんから応援歌を贈られ地球1週マラソンに挑戦中のタレント・間寛平(59)は米カンザス州で訃報を耳にし、40年間親交があった歌手・泉谷しげる(60)は声を荒らげて悔しがった。

 竹馬の友が旅立った。三浦は午後7時20分ごろ、沈痛な面持ちで通夜会場に到着。式場内で約20分間、親友に別れを告げた。車で会場を後にする際にも、口を真一文字に閉じ、号泣したためなのか目をしばたたかせた。表情は疲れ切っていた。

 日中は悲しみをこらえ都内でCM撮影。死去当日の2日も、都内でCMを撮影しており、終了後にスタッフから訃報を聞かされ絶句。気が動転し報道各社からの問い合わせに応じられる状況ではなかった。悲しみが癒えるはずはないが、一夜明けて、所属事務所を通じ心情を公表した。

 「彼は高校の同級生でありながら、尊敬し、またあこがれのミュージシャンでもありました。その思いは、いまでも変わりません。残念です。冥福を祈るばかりです」

 残念ですの一語に、無念の思いが込められていた。

 東京都日野市の都立日野高校の同級生。お互い別々のバンドだったが音楽活動をする仲間だった。三浦はかつて本紙の取材に「清志郎くんのバンドは高校3年の後半にレコードデビューして、僕たちは彼らに何となく付きまとっていた」と楽しそうに話していた。闘病の報告も受けており、「よく電話でやりとりをしている」と語っていた。

 芸能界に進んだ後も親交は続いた。清志郎さんは絵画、自身は陶磁器などを出品していた「都立日野高校OB展」を、毎年のように一緒に訪問。清志郎さんの72年の初ヒット曲「ぼくの好きな先生」のモデルとなった恩師・小林晴雄元教諭(77)を交え、昔話に花を咲かせながら会場を回った。

 今年1月下旬に東京都国立市のギャラリーで開かれた同展覧会が最後の対面。清志郎さんは天国へ向かったが、三浦にとっては「尊敬」と「あこがれ」の親友として、永遠の存在だ。(スポニチ)

200954


忌野清志郎さん:通夜 井上陽水ら最後の別れ

 がん性リンパ管症のため、2日に58歳で他界したロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんの通夜が3日、都内で近親者のみでしめやかに営まれた。「RCサクセション」時代からの盟友のギタリスト仲井戸麗市(58)をはじめ、40年来の旧友の井上陽水(60)ら120人が最後の別れに訪れた。4日の葬儀はデビュー時からの歌をたっぷり流すロック葬になる。

 午後6時からの通夜。仲井戸と井上のほか、高校時代からの親友で俳優の三浦友和(57)、82年に「い・け・な・いルージュマジック」を共作してNo・1ヒットさせた坂本龍一(57)、学生時代からのファンで30年近い友人の俳優竹中直人(53)が訪れた。

 最期をみとった仲井戸は憔悴(しょうすい)しきった様子。竹中はハンカチで涙をぬぐうのが精いっぱい。無名時代からの旧友で70年代初めに寝台列車を乗り継ぎ一緒に全国をまわった井上は、悲しみに暮れる景子夫人と長男の竜平さん(20)と長女の百世さん(17)に言葉を掛けた。

 無宗教の献花形式。突然の他界で「本人が残した言葉はない」(関係者)ものの、望んだであろう送り方を家族がくんだ。遺影は2年前に家族や友人と集まった時のもので、照れ屋な素顔を象徴するはにかんでいる写真。派手なメークで知られたロックスターの顔ではなく良きパパの顔が飾られた。

 お経はなく、喉頭(こうとう)がん公表直後に発表したアルバム「夢助」の曲が流れる中での献花。関係者は「葬儀はデビュー時からの歌をたっぷりと流して送ることになると思います」と明言。「スローバラード」「雨あがりの夜空に」など15曲以上が流れる異例のロック葬だ。

 体調不良で入院したのが2週間ほど前。容体が急変したのは1日午後だった。血圧が急激に下がり意識が混濁。眠った状態のまま静かに息を引き取った。みんなで「眠ってるだけだからもうすぐ起きるよ」と言いながら、最後まで再起を信じていたという。

 都内の自宅に戻った遺体は洋室の居間で布団に寝かせられた。一夜明けたこの日も眠っているような姿に家族らが「起きなさいよ」と声を掛けるなど「まだ誰も亡くなったことを信じられない」(関係者)状態だった。9日に東京・青山葬儀所で一般弔問を受け付ける告別式が行われる。(スポニチ)

200954


泉谷しげる:ショック隠せず「冥福祈らない」

 泉谷しげるにとって忌野清志郎さんは盟友でありライバルであり、師匠。「あいつには似合わない。全く信じがたい。絶対受け止めたくないし、通夜にも告別式にも行かない。冥福も祈らない。おれの中で忌野清志郎は永遠です」。かたくなに現実を受け止めない姿に大きなショックを感じさせた。

 この日、都内で動画配信サイト「コラコラ放送局!」の発表会を実施。だが登場するなり、自ら清志郎さんの話題に及んだ。出会いは71年。当時、アマチュアだった泉谷はRCサクセションのファンで、東京・渋谷にあったライブ喫茶を頻繁に訪れていた。「何度も見に行くうちに、あいつがオレをステージに上げてくれてね。それでいつの間にか一緒にやってた」。泉谷は同年にデビュー。客を「バカヤロー」とののしるスタイルは当時の清志郎さんの影響だった。「新鮮でね。もらっちゃったよ」。

 タブーにおくすることなく過激な言動が話題になることが多かった清志郎さん。「オレはそういうことをしてほしくなくてね。いい曲があるんだから普遍的なものを目指してほしかった」。こう注文を付ければ清志郎さんも譲らず、何度もケンカをした。

 連絡は3、4年取っていなかった。「急に連絡が取れなくなった。あいつ体が悪くなって、あいつなりに気を使ったのかもしれない」。それでも仲井戸らと連絡を取り、清志郎さんの容体が急変したことは知っていた。02年には清志郎さんとバンド「スパイスマーケット」を組んで活動。「かんおけの中から引っ張り出して、また(音楽を)やらせます」と話したが、その声は弱々しかった。(スポニチ)

200954


アルフィー坂崎:同日に父親も亡くしてた

 忌野清志郎さんの友人の「THE ALFEE」の坂崎幸之助(55)が、清志郎さんが死去した2日に、父の坂崎幸太郎さんを亡くしていた。マスコミ各社に送った追悼コメントで明かした。

 関係者によると、幸太郎さんは2日午後11時ごろ、がんのため都内の病院で死去。85歳だった。坂崎は幸太郎さんの死去の知らせを受けた直後、携帯メールに清志郎さんの訃報のニュースが入ったといい「この日は僕にとって、とても大切な人を2人同時に亡くしてしまった、生涯忘れない日になりました」と落胆。大きなショックを受けているようだが「清志郎さんが残してくれた素晴らしい楽曲という宝物を、これからもみんなで歌い継いで行ければ」とコメントを寄せた。(スポニチ)

200954


清志郎さん:遺作はラジオキャンペーンソング

 大阪のラジオ局・FM802の09年春キャンペーンソング「Oh!RADIO」が、清志郎さんの遺作となった。スガシカオ(42)やくるり・岸田繁(33)らアーティスト7人の特別ユニット「RADIO SOUL 20」名義。清志郎さんはボーカルには参加していないが、作詞・作曲を担当した。

 関係者によると、楽曲制作の依頼は1月中旬。「当時は通院治療中。ライブや激しい運動は難しいけど、日常生活には支障がないと快諾をもらった」。約1カ月後の2月4日に完成。3月に予定されていた収録への参加は体調不良でキャンセルされたが「まさか遺作になるとは」と驚きを隠せない。

 もともと、5月末までの同局限定オンエアを予定しており、CD化のプランはなかったが、ナマ声を収めたデモテープを含め、同曲の音源化を望む声が強まりそうだ。(スポニチ)

200954


アッコ:「涙が出てきそう」番組で追悼

 忌野清志郎さんが71年からしばらく所属していた「ホリプロ」の先輩、和田アキ子(59)は3日、司会を務めるTBS「アッコにおまかせ!」で追悼した。清志郎さんの曲「スローバラード」「雨あがりの夜空に」をカバーし、アルバムに収録したこともあり「本当にロックな人でした。涙が出てきそう」と表情を曇らせた。清志郎さんが自転車に乗っている映像が映し出されると「そういえば自転車取られた言うてたなあ」と懐かしむように話した。(スポニチ)

200954


清志郎さん:恩師も通夜参列「よく頑張った」

 忌野清志郎さんの通夜には、RCサクセションの72年の初のヒット曲「ぼくの好きな先生」のモデルになった恩師の小林晴雄元教諭(77)も訪れた。都立日野高校3年生の時の担任で美術教諭。闘病中の07年に清志郎さんが三浦友和と「日野高校OB展」を訪れた際に会っており、今年1月の同展でも対面。「人が来ない日時を選んで来たので、彼なりに死期を悟っていたのか。でもその時にかなり回復していますと言っていたので(再起を)信じていたのですが」と早すぎる死を悼んだうえで「穏やかな顔でした。よく頑張った。ゆっくり休んでほしい」と話した。(スポニチ)

200954


Rock star Kiyoshiro Imawano dies at 58

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Kiyoshiro Imawano (Mainichi)

Kiyoshiro Imawano, a rock and roll singer known for his trademark lyrics and original stage costumes, passed away Saturday from lymphatic cancer. He was 58.

Imawano was born Kiyoshi Kurihara in Tokyo. In 1968 he formed the band RC Succession with his junior high school classmates, and debuted in 1970 with the song "Takarakuji wa Kawanai." He followed up with hits such as 1972's "Boku no Sukina Sensei" and 1980's "Ame Agari no Yozora ni."

In 1982, Imawano teamed up with Ryuichi Sakamoto to release the single "I-ke-na-i Rouge Magic," which became a phenomenon in Japan. Hailed as a Japanese "rock god," Imawano performed concerts, and also appeared in commercials and films.

Imawano, who believed that "music should be the stimulus of the era," also performed songs with a political message. At one point, sales of his anti-nuclear power album "Covers," and that of an album that included a punk version of "Kimi ga Yo," Japan's national anthem, were temporarily suspended. At a concert in 2003 that was being broadcast live on an FM radio station, he suddenly sang the national anthem and "Akogare no Kita-Chosen," or "Longing for North Korea," forcing the radio station to cut off its broadcast.

Imawano was diagnosed with cancer of the larynx in July 2006 and admitted to hospital. After treatment, he held a comeback concert at Tokyo's Budokan in February 2008. However, in July of the same year, it was confirmed that the cancer had spread to one of his pelvic bones, and Imawano was forced to put his career on hold to undergo radiation therapy.

A funeral service will be held on May 9 at 1 p.m., at Aoyama Sougisho in Tokyo's Minato Ward. Imawano is survived by his wife, Keiko Kurihara.

(Mainichi Japan) May 4, 2009


訃報:忌野清志郎さん58歳=ロック歌手 がん治療続け

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忌野清志郎さん

 「ベイベー!」や「愛し合ってるかーい!」などの決めぜりふ、奇抜な衣装と演出で知られるロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳だった。葬儀は9日午後1時、東京都港区南青山の青山葬儀所。喪主は妻の栗原景子(くりはら・けいこ)さん。

 東京生まれ。68年に中学校の同級生らと、忌野さんをリーダーとするバンド「RCサクセション」を結成、70年に「宝くじは買わない」でデビューした。72年には「ぼくの好きな先生」が、80年には「雨あがりの夜空に」が大ヒット。82年には坂本龍一さんと組んでリリースしたシングル「い・け・な・いルージュマジック」が社会現象を巻き起こし、日本の「ロックの神様」としてコンサートのほか、CMや映画などで活躍した。

 一方、「音楽は時代の刺激剤であるべきだ」との信念を持ち、政治的なメッセージを込めた歌も歌った。そのため、反原発を扱ったアルバム「COVERS」やパンクロック風にアレンジした「君が代」が入ったアルバム「冬の十字架」が一時、発売中止になったり、コンサートで突然「あこがれの北朝鮮」「君が代」を歌って、FM中継が中断したこともあった。

 06年7月に喉頭(こうとう)がんと診断され入院。治療を続けた後、08年2月に日本武道館で本格復帰した。しかし、同7月、左腸骨にがんが転移していたことが判明、再び活動を中止し放射線治療などを続けていた。

 ◇自分の道を貫いた


 ▽音楽評論家、田家秀樹さんの話 日本のロックバンドと日本語のロックの原形をつくった人だった。忌野さんがリーダーだったRCサクセションは、黒人音楽と日本語を初めて結びつけ、またビジュアル系の元祖でもあった。反原発の曲をつくるなど、ロックが反骨であると証明し続けた。妥協もこびることもなく、音楽一筋を貫き通したと言える。死は早すぎた。

 ◇聞く者に力与えた


 ▽音楽評論家、天辰保文さんの話 清志郎さんの根底には黒人音楽への敬意があり、それをエンターテインメントの形で日本に定着させた功績は大きい。権威への反逆も一貫していたが、それをユーモアにくるみ、さりげなく表現していた。実はシャイな人だったと思う。彼の音楽には「彼は常に信頼できる人であり、自分もしっかりしなければ」と、聞く者に思わせる力があった。

毎日新聞 200952日 2254分(最終更新 53日 1639分)


訃報:忌野清志郎さん58歳=ロック歌手 がん治療続け

200952 2254分 更新:53 03

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忌野清志郎さん

 「ベイベー!」や「愛し合ってるかーい!」などの決めぜりふ、奇抜な衣装と演出で知られるロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳だった。葬儀は9日午後1時、東京都港区南青山の青山葬儀所。喪主は妻の栗原景子(くりはら・けいこ)さん。

 東京生まれ。68年に中学校の同級生らと、忌野さんをリーダーとするバンド「RCサクセション」を結成、70年に「宝くじは買わない」でデビューした。72年には「ぼくの好きな先生」が、80年には「雨あがりの夜空に」が大ヒット。82年には坂本龍一さんと組んでリリースしたシングル「い・け・な・いルージュマジック」が社会現象を巻き起こし、日本の「ロックの神様」としてコンサートのほか、CMや映画などで活躍した。

 一方、「音楽は時代の刺激剤であるべきだ」との信念を持ち、政治的なメッセージを込めた歌も歌った。そのため、反原発を扱ったアルバム「COVERS」やパンクロック風にアレンジした「君が代」が入ったアルバム「冬の十字架」が一時、発売中止になったり、コンサートで突然「あこがれの北朝鮮」「君が代」を歌って、FM中継が中断したこともあった。

 06年7月に喉頭(こうとう)がんと診断され入院。治療を続けた後、08年2月に日本武道館で本格復帰した。しかし、同7月、左腸骨にがんが転移していたことが判明、再び活動を中止し放射線治療などを続けていた。


忌野清志郎:FM802キャンペーン曲 がん闘病中、スガシカオら特別ユニットに

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FM802の開局20周年曲を制作した忌野清志郎さん

 がんのため活動を休止している忌野清志郎さん(57)が、ラジオ局「FM802」の開局20周年キャンペーンソング「Oh!RADIO」を書き下ろしたことが1日、分かった。

 ゆずやCHARAさんの楽曲を手がける蔦谷好位置(つたやこういち)さんがアレンジ。同局とゆかりが深いスガシカオさんやボニーピンクさんら7組のアーティストでつくる特別ユニット「RADIO SOUL 20」が歌う。同局で5月末まで放送される。【西村綾乃】

 200941


忌野清志郎:帰ってきたぜ武道館 がん克服し3時間「愛しあってるかーい!」

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忌野清志郎さん。日本武道館でのライブ。咽頭がんからの完全復活をファンに報告した

 咽頭がん治療のため活動を休止していた忌野清志郎さん(56)が10日、東京・北の丸の「日本武道館」で1年7カ月ぶりに活動を再開。約3時間のステージで24曲を独特のしゃがれ声で歌い上げ、決めぜりふ「愛し合ってるかーーーい!!」と叫び完全復活をアピールした。武道館公演は、00年3月のデビュー30周年記念イベント「RESPECT!」以来8年ぶり。

 「帰って来たぜ武道館!」とシャウトしながら、ド派手なピンクのスーツでグリーンのマントをひるがえしながら登場した忌野さんは、待ち望んだファンへのあいさつ代わりに、ステージを駆け回りながら「JUMP」を熱唱。マイクを振り回すおなじみのパフォーマンスを何度も繰り返した。忌野さんは「イスに座って地味に歌おうかとも思っていたけど、こうやってバンドと一緒にステージに立ててうれしい」と額の汗をぬぐい、「勇気をくれたみんなありがとう。心配かけたけど、ベイビー。愛してます」とVサインをで歓声に応えていた。

 RCサクセションのギタリスト、仲井戸CHABO麗市さんも登場。ライブ中盤には「僕が21歳で、清志郎が20歳だったとき。初めて2人で作った思い出の曲」と復活の記念に「コーヒーサイフォン」をソロで歌い、盟友の復活を祝った。アンコールでは代表曲「雨あがりの夜空に」で、集まった1万3200人を酔わせた。

 アンコールのラスト曲「LIKE DREAM」を歌い終えた後には、ステージに長男竜平さん(19)と長女百世さん(16)が、大きな花束を持って登場。「なぜここで出すんだあ!家族を」と照れながらも、百世さんの涙に自身の瞳にも涙が光った。

 忌野さんは、70年にロックバンド「RCサクセション」のボーカリストとしてシングルデビュー。「サマーツアー」「スローバラード」などのヒット曲を放つも、91年にバンド活動を休止し、ソロを中心に活動を展開していた。06年7月に、喉頭がんであることを自身の公式サイトで公表。07年4月に、東京・青山にあるライブハウス「ブルーノート東京」で開かれた「ザ・ブルースブラザーズ・バンド」の来日公演にゲスト出演した。12月には、オノ・ヨーコさんが主催する「ジョン・レノン・スーパーライブ Dream Power」に出演するまでに回復していた。

 武道館公演のチケットが即日完売したことを受け、18日には、「ブルーノート東京」で追加公演を開き、一晩で2ステージを展開する。また24日には「大阪フェスティバルホール」、3月2日には「京都会館第1ホール」でも公演が予定されている。【西村綾乃】

 2008212


追悼:
「この人、この時」ロックシンガー・忌野清志郎さん ロックな神様(05年5月)

Pasted Graphic
忌野清志郎さん=大西達也撮影

35周年--音楽が面白くなってきた

 <デビュー35周年記念のアルバム「GOD」(ユニバーサルミュージック)。同名の新曲はポップなリズムで「あいつの名前はGOD(ジーオーディー)/人間どもを作りあげた/戦争と平和のいたちごっこ/チンケなゲームを続けてる」と歌う>

 前のアルバムが「KING」だったから、今度は「GOD」(笑い)。最初からメロディーは大体あった。曲作りには、とっかかりの言葉みたいなものがあるんです。「あいつの名前はGOD(ジーオーディー)」って歌詞が出てきた時、この曲はもう90%完成したなという感じだった。

 35年ってあっという間ですね。あっという間。18歳でデビューしましたけど、そのころは、まあ普通に考えて30歳ぐらいになったらもうちょっとロックはできないんじゃない、という感じだった。で、30歳ぐらいになると「まあ40歳ぐらいかな」と。でも「40でロックはないよなぁ」って感じでした。

 ところがね、どんどん、こう音楽が面白くなってきちゃったんですね、年とともに。何でも歌えるようになってきちゃったし。なかなかやめるとかそういう気持ちにならなくなっちゃった。

 <別名「キング・オブ・ライブ」。白地にバラを散らしたようなどぎついスーツに派手なメーク。大抵2時間半、汗だくで歌い続け、叫び続けて声量がまるで落ちない>

 割とね、体力的にはきつくないんです。なんかだんだん楽になっている。多分ムダなエネルギーを使わなくなっているんだと思うんですよ。力が抜けている感じですかね。

 01年から自転車に乗っていて、東京から鹿児島まで10日かけて走ったり、通勤も自転車でしてる。風が気持ちいいですよ、春先から今の季節。自転車で体力がついたというより、体力の使い方がうまくなったんだと思うんです。長距離を走ることとライブは似てる。要するに心肺機能が大事(笑い)。筋肉はあまり使いどころがなくて、水分の補給が大事だとかも。=つづく【聞き手・太田阿利佐】


ライブ--愛し合ってるか~~い

 <4月24日、東京・代々木公園での野外ライブ。終わり近く、息を切らせながら観客に呼びかけた。「みんな、いいか。ロックの基本は愛と平和なんだ。今日はアースデーだ、イェー。一番の環境破壊は戦争だと思う」>

 やっぱり「今だから言わないといけない」というのもあるんだけど、「言ってどうなる」とも思っているんですよね。でも、こう、なんて言うのかな。ここでオレが言わないと、ステージなんかではもうだれも言う人がいない。だから、どうなんでしょう、筑紫哲也さん(キャスター)とかそういうふうな人が言ってもだめでしょうし、ロックコンサートの場で言った方がいいんじゃないかな……と思うんですけど。ま、お客さんの反応もいろいろで分かんないですけど。

 <呼びかけは続く。「みんな、素晴らしい。日本の憲法は戦争をしないんだ、イェー。戦争に加担しないんだ、イェー。愛と平和なんだ、イェー。ジョン・レノンの歌みたいじゃないか、イェー」> 今の若い人は、あまり言わないですね。でも僕も、若いころからこういうことを言いたかったんですけど、なんか若いころって言えないんですよ。言っても説得力がないっていうか。その分を今言っている。

 僕らの時代は、政治的なことが結構身近にあったと思うんです。学生運動だとか、ビートルズだとか、ボブ・ディランだとか。ビートルズも何か分からないけれどすごい政治的なにおいがしてた。そんな歌詞はあんまりなかったんですけどね。そういうことも学んでいかないとちゃんとしたロックじゃない、というきらいがあった。とりあえず体制に反対するとか、政府に反対するとか(笑い)。それがロックだった。でもそういうのが、全くなくなったような気がする。

 <さらに呼びかける。「今日はみんなに聞きたいことがあるんだ。みんな、愛し合っているか~~い。イェー。ご機嫌だぜ。……ラブソング、やります」>=つづく【聞き手・太田阿利佐】


覚悟--世間を騒がすのが音楽

 <80年、29歳で「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」が大ヒット。88年に反戦、反核をテーマにしたアルバム「カバーズ」が発売中止になる>

 がっかりしましたね。レコード業界にというか、当然のように発売中止になったことにね。自分が一生懸命やっている仕事はそんな軽いものなのか、男の仕事じゃないな、と思いました。「ま、でもどうでもいいよ。まじめにやってもしようがない」。そんな気もして歌をやめてやろうと思った。でも「あれっ」と思って。一体オレ、やめて何やるの? 次の職業は? 全然わかんない。

 <その後も「パパの歌」などのヒットの一方、問題作を発表。99年、アルバムに収録のロック調「君が代」が問題化。「君が代」を外せばアルバムの発売はできたが、拒む>

 君が代が国歌として法制化されても、どんなアレンジをしようが罰せられることはない。だから極端なアレンジにしただけであんな騒ぎになった。面白いですよね。世間を一種騒がすというか、時代の刺激剤というか、音楽っていうのはそうあるべきだと思う。なんかそういうサウンドじゃないとダメな気がする。

 政治的なメッセージが入った歌を歌うことが、歌手としてマイナスになるという考えは全くない。だって何がプラスで、何がマイナスになるかは分からない。発売中止はマイナスだけど、ま、でもね、そこで自分の歌いたいものを引っ込めちゃうと一生後悔しそうな気がするんですよ。カバーズも君が代も、謎のバンド「THE TIMERS」の時もそう。タイマーズでは何でも歌っちゃって、ダメだった時はお客に総スカン食って結局やめさせられる、そう思っていた。ところが逆にどんどん支持された。不思議なもんですよね。

 <03年、コンサートで突然「あこがれの北朝鮮」「君が代」を歌い、FM中継が中断。こうコメントした。「イモな奴(やつ)らがロックン・ロールを分かってないだけさ」>=つづく【聞き手・太田阿利佐】


将来--歌い続けるオヤジでいる

<まじめなのか、不まじめなのか、定かでない不思議な魅力。CMや映画の出演も多い。> この夏公開予定の「妖怪大戦争」(三池崇史監督)には、妖怪の総大将、ぬらりひょんの役で出ているんです。いや~、楽しかった。本業が俳優じゃないんで、お気楽な感じで。自分がメーンで、自分の思うように好きなようにやるステージとはもう全然違う。エンディングテーマの作曲も担当しました。井上陽水が近所に引っ越してきたので「近所だからコーラスやってくれない」って言ったら「いいよ、いいよ」って。

 <ヒップホップ・グループのライムスターとラップに挑んだ最新シングル「雨あがりの夜空に35」では「リタイヤ寸前の中高年なんちゅうのはゴメンだ」と歌う。>

 最近は新しいムーブメントが、すぐにこう芸能界に利用され、消費されちゃう。それがすごい早い。ストリートから生まれたヒップホップもそう。挑戦的な部分がすごく分かりやすく、若い曲になっていく。

 今の音楽業界はやっぱりどう見ても、やっている方も聴く方も若者の音楽。いろんなことを考えない人が増えているんじゃないかな。で、そのうち気がつかないうちに憲法が改正されて、子どもたちがみんな戦場に行ったりしちゃうよね。そうなってから「しまった」では遅いんですけど、でもきっとそうなっちゃうと思う。だってピープルにさ、パワーがないもん。憲法改正に反対するよりどころがもうないもの。

 <ひょうひょうと語る。> 将来の目標は、ない。ただ、いつまででも歌う。若い人がオヤジになって「あのオヤジ、オレがガキのころからオヤジだったのにまだ歌ってるよ」って驚かれるようになりたい。マディ・ウォーターズとか、ルイ・アームストロングとか、村田英雄さんとか。だってオレが子どものころからオヤジで、オレがオヤジになってもまだ歌っていたもん。すごいよね。=おわり【聞き手・太田阿利佐】

=2005年5月毎日新聞に掲載
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