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野茂英雄が現役引退
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野茂引退:「おかげで、今の僕らがある」…松井秀らが謝辞

 日本選手の米大リーグ進出のパイオニアとなった野茂英雄投手の引退表明を受け17日、現在メジャーでプレーする多くの日本選手が「今の僕らがあるのは野茂さんのおかげ」と声をそろえた。

 ヤンキースの松井秀は左ひざ痛に苦しんでいる中で「今日、メジャーリーグで日本人選手が活躍できているのは、野茂さんの大きな力によるものだと思う。違った形でのこれからのご活躍をお祈りします」と話し、レッドソックスの松坂は「中学生の時、僕にメジャーリーグという明確な目標を与えてくれた。その時から同じフィールドに立つことを目標としてきた」とコメントした。

 ドジャースの黒田は「今ほど環境が整っていない中で長年プレーしたのはすごい。野茂さんが米国での日本選手の評価を上げた。野茂さんの着ていたユニホームでプレーしていることを誇りに思う」と胸を張った。斎藤は「野球人としても、ドジャースに在籍した投手としても先輩。日本人としてメジャー史に名を刻んだ。引退は残念で悲しいニュースだ」と話した。

 マリナーズの城島は捕手として大リーグの扉を開けた。「キャッチャーがたまたま先に誰もいなかっただけ。(パイオニアとして)比べるのは野茂さんに失礼ですよ」と語った。

 カブスの福留は「今後は若い選手を育てていくような活動をしてもらえれば、球界にとってよいことだと思います」と現役引退をねぎらった。レイズの岩村は「パイオニアとしてすごい人だし、尊敬していた。メジャーで一度対戦してみたかった」と惜しんだ。(共同)

 ○…現役引退を表明した野茂について、米メディアは17日、日本選手の米大リーグ移籍の先駆けになった投手として伝えた。

 ロサンゼルス・タイムズ(電子版)は「草分けとなる移籍で日本選手に扉を開いた」とし、史上4人目となる両リーグでの無安打無得点試合を達成するなどメジャー通算123勝の実績や「ノモマニア」と呼ばれた熱狂的なファンを生んだ功績を紹介。「ノーモア・ノモ(野茂はもう見られない)」との惜別記事を掲載した。(共同)

毎日新聞 2008年7月18日 17時29分


野茂引退:「息子のようだった」…ラソーダ氏、思い出語る

 野茂英雄投手の現役引退表明のニュースを受け、ドジャース入団時の監督だったラソーダ氏が17日(日本時間18日)、ドジャースタジアムで会見し「息子のようだった。引退表明は本当につらかったと思う」と心中を思いやった。

 指揮官として、野茂を見守ったラソーダ氏は、心身の強さを兼ね備えた投手だったとし「野球を愛し、馬車馬のようにいつも投げてくれて誇りに思う。最初は異文化に戸惑ったが、彼は目標を成し遂げた」。

 ドジャース、レッドソックスでノーヒットノーランを記録。両リーグでの達成は史上4人目の快挙だった。ドジャース時代のロッキーズ戦での達成は特筆すべきもの。球場が高地にあり、スタミナの消耗が激しく、しかも球が飛びやすいため、投手に不利とされるデンバーで史上初めて達成。「センセーショナルだった」と声を震わせた。

 人気、実力を兼ね備え、米国での日本選手の評価を高めた功績は大きい。ラソーダ氏は「かれがいなかったら、米国の球団は日本選手の獲得をためらったはず」と言い切った。

 一番の思い出は初登板したサンフランシスコでのジャイアンツ戦だという。「マウンドの野茂に、スタンドからカメラのフラッシュが一斉にたかれたのが忘れられない」

 「ノモマニア」と呼ばれる熱狂的なファンを生んだパイオニア。この試合が日米の野球の転換期となった。(共同)

毎日新聞 2008年7月18日 17時21分


野球:野茂引退 球場外でも野球人 企業廃部に受け皿、NOMOク創設「チャンスを」

 17日に現役引退を表明した元大リーガー、野茂英雄投手(39)の足跡は、日米通算201勝の数字だけでは計れない。野球選手の受け皿拡大を目指し、地域密着のクラブチーム「NOMOベースボールクラブ」を設立するなど、グラウンド外での活動にこそ、野球人・野茂の真の姿が見える。【井沢真】

 02年に米独立リーグ球団の共同オーナーとなった野茂は、その年のオフ、国内選手向けに入団テストを行った。不況によるリストラなどで社会人野球の企業チームの休廃部が相次いだ時代。野茂が所属していた新日鉄堺(大阪)も94年に休部した。テストに集まった選手のレベルは想像以上に高く、野茂は「野球を続けたくても続けられない選手にチャンスを与えたい」との思いを強くした。

 03年春、堺市を拠点にするNPO(非営利組織)法人のクラブチーム「NOMOベースボールクラブ」を設立。監督に就任した社会人時代の先輩、清水信英さん(50)は当時を振り返り、「(02年冬)帰国した野茂と話した時、『クラブチームを作ったら監督をしてくれますか』と言う。翌朝、彼は新幹線で東京に向かう車内から電話で『お願いします』と言ってきた。二つ返事でOKしました」。

 NOMOクラブから、プロ入りの夢をつかんだのが、05年秋の大学・社会人ドラフト5巡目で中日に指名された柳田殖生(しげお)内野手(26)。柳田は「自分を拾ってくださった野茂さんに感謝しています。以前、会った時は、『夢をあきらめないで』と言われました」と話す。柳田は07年6月に1軍デビューし、プロ初本塁打も放った。

 野球を続けたくても、続ける環境に恵まれない選手はたくさんいる。清水さんは「受け皿のない地域に第二、第三のNOMOクラブを作りたいと、あいつは思っています」と、野茂の第二の人生の夢を、野茂に代わって誇らしげに語った。

 ◇「生き様、見せてくれた」

 かつて社会人野球で監督として対戦し、日本代表コーチで指導した経験があるJR北海道の高岡茂夫監督(58)は「挫折を味わっても限界に挑戦する精神は日本人の心。野球人としての生き様をみせてくれた」と、これまでの労をねぎらった。

 高岡監督は87年、たくぎん監督として初めて新日鉄堺の野茂投手と対戦。野茂投手はほぼ直球のみの投球だったが「まったく打てなかった」という。プエルトリコで開かれたインターコンチネンタル大会(89年)では、日本代表コーチとして野茂投手と約3週間、生活をともにした。3度の食事をしっかり取り、遠投とキャッチボールで納得のいくボールが投げられるまでは決してブルペンに入らなかった。そうした投手としてのこだわりを目の当たりにした。

 高岡監督は「社会人野球での経験を生かして国際舞台で活躍してくれたのはうれしかった」と話し「引退は惜しいが、貴重な経験をアマチュア球界に還元してもらいたい」と、第二の人生に期待を寄せた。【三沢邦彦】

 ◇「やりたいが、けじめ」--野茂が胸中

 野茂英雄投手は、栄光のキャリアの幕を自ら下ろした。17日、現役引退を決めた胸中を語った。

 --決断に至った経緯は。
 「中途半端にしていてもしょうがないし、けじめをつけないといけない。ファンにも報告しないといけない。どこも取ってくれる球団はないと思う」
 --未練はないか。
 「自分の中ではやりたいが、プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う」
 --4月に大リーグ復帰を果たしある程度納得したのか。
 「そんなことは全然ない。引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、周りに迷惑をかけるだけだと思った」【共同】

毎日新聞 2008年7月18日 北海道朝刊


野茂引退:最後までスタイル貫き

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96年の日米野球第2戦に登板した野茂英雄投手=東京ドームで1996年11月2日、小座野容斉撮影

 17日に現役引退を表明した野茂英雄投手(39)は、まさに革命児だった。

 野茂が近鉄から米大リーグ、ロサンゼルス・ドジャースに移籍したのは1995年。当時、大リーグは前年の選手会ストライキの影響で、深刻なファン離れに苦しんでいた。

 太平洋を渡ってきた「トルネード」は、文字通り米球界に旋風を起こした。150キロ台の直球と、鋭く落ちるフォークボールを武器に三振の山を築いた。96年9月には無安打無得点試合(ノーヒット・ノーラン)も達成。「ノモマニア」と呼ばれる熱狂的なファンを生み、スタジアムには観客が戻ってきた。野茂は大リーグの救世主になった。

 その後の大リーガー人生は順風満帆ではなかった。98年シーズン途中にドジャースからメッツに移籍し、その後も多くの球団を渡り歩いた。マイナーに落ちたこともある。

 しかし01年からは、もう一度輝きを取り戻した。3年連続の2けた勝利。01年4月、レッドソックスに移籍した初戦では2度目のノーヒット・ノーランを記録し、この年、2度目の奪三振王を獲得した。当時のレッドソックスのジョー・ケリガン投手コーチは「彼は鉄の男だ」と評した。報道陣にだけでなく、ロッカールームでも寡黙で、決して愛想は良くない。だが、どんな状況でも不満を言わず、ピンチに顔色を変えず、黙々と投げ込む姿勢は、首脳陣からもチームメートからも尊敬を集めた。

 イチロー選手(マリナーズ)の移籍でメジャー初対決が実現したのは01年5月2日。その時も「対戦は楽しみだった」という一方、「彼は既に十分、活躍している選手。きょう(の対戦)が特別な日ではない」と冷静な言葉も残した。

 全盛期の球威は徐々に失われたが、速球とフォークが軸のスタイルは変えなかった。ツーシーム、チェンジアップが流行する大リーグで、一層独自の色を出すようになった。球速は遅く、単調に見えるが打たれない。03年にヤンキース入りした松井秀喜選手は、当時の野茂について「最近のメジャーの打者は、あのフォークを見慣れていないんでしょう」と話した。周囲に流されない一徹さが、長い現役生活を支えた。

 メジャー生活の最後は華々しいものではなかった。しかし、その後のイチロー、松井秀喜、松坂大輔各選手らのメジャーでの活躍も、野茂の存在があってこそ。その功績は決して消えることはない。【野村隆宏】

毎日新聞 2008年7月18日 0時49分(最終更新 7月18日 1時05分)


野球:野茂引退 トルネード、日米に旋風 ノーヒット・ノーラン2度

 日本球界から米大リーグへの道を切り開いたパイオニアがユニホームを脱ぐ。元大リーガー、野茂英雄投手(39)が17日、現役引退を表明した。日本の「輸入」一色だった日米間の選手の動きに新風を吹き込んで十数年。多くの日本人選手の先駆けとなる足跡を残し、日米通算19年のプロ生活に終止符を打つ。

 ◇「野球が好き」 いつまでも少年の心で

 野茂は少年時代、父から「大きなフォームで投げなさい」と助言されたトルネード(竜巻)投法で、ミット目掛けて白球を投げ込んだ。五輪代表にも選ばれた新日鉄堺時代、たまの休日も布団の中で野球ゲームに熱中した。そして日米通算201勝を挙げる大投手となった40歳間近の今も、「野球が好き」と何のてらいもなく言える。野茂は少年のころに出会った宝物を大切にし、それ以外のものは求めない「足るを知る」生き方をしてきた。

 95年、ストライキ明けの大リーグにファンを取り戻した「メジャーの救世主」や、日本人大リーガーの先駆けとなった「開拓者」といった肩書さえ、野茂本人には実感が伴わない言葉だろう。そこにあるのは、どきどきさせてくれるものに素直に従おうとする飾り気のない少年の心だ。右肩の手術を経るなどして球威が衰え、受け入れてくれるメジャー球団が見つからずに現役引退を決断したが、私財を投じて堺市に創設した「NOMOベースボールクラブ」を拠点に、今後も野球とかかわり続けていくことになる。

 堺市にあるNOMOクラブのグラウンドは、野茂が新日鉄堺時代にメジャーへ羽ばたく基礎をつくった土地だ。工場群に囲まれ、日が落ちると、球音しか聞こえなくなる。寡黙で不器用で洗練されていないが、一つの道を真っすぐに進む野茂の背中を追いかけて、高校中退などで野球をする機会を奪われた若者たちが、今もここに集まる。「現役の間は僕自身は直接活動に携われないが、これからも地域に密着してやっていきたい」と語っていた野茂は、自分を育ててくれた場所に戻り、宝物を磨き続けていく。【高橋秀明】

 ◇「今こそ胸を張れ」--功績たたえる声、続々

 野茂の引退表明には惜しむ声と、功績をたたえる声が相次いだ。

 88年ソウル五輪投手コーチの山中正竹・横浜球団常務は、大リーグで活躍していた野茂に「野球界にとって王、長嶋クラスの功労者なのだから、活躍ができなくなっても堂々と胸を張っていなさい」と声を掛けたという。引退を決めた今こそ「胸を張ってほしい」と山中さんは呼びかけた。

 近鉄時代の先輩、吉井・日本ハム投手コーチは「大リーグでは引退した選手が復帰することはよくある。また復帰しちゃうかも」と話した。そのうえで「本当にやめるのなら『おめでとう』と言いたい。あれだけ成功したのだから」と、労をねぎらった。

 また、近鉄時代のコンディショニングコーチだった立花龍司・ロッテヘッドコンディショニングコーチは「絶対にトレーニングを休まない野茂を見て、トレーニングをする選手が増え、選手寿命を長くしてくれた」と野茂の野球に対する姿勢を評価。野茂が入団した時に仰木彬監督(当時)から「あいつは腰をひねって投げることで(ドラフト)1位で入ってきた。(フォームは)直させないから、壊れるかもしれん。しっかりトレーニングさせてくれ」と言われたという。投手の練習といえばキャッチボールとランニングくらいの時代。「日本で初めてトレーニングしながら投げた」と振り返った。

 社会人野球の新日鉄堺監督時代に野茂を発掘し、入社を勧めた浜崎満重さん(現宮崎・延岡学園高監督)が、初めて野茂の投球を見たのは大阪・成城工1年生の秋。「モノが違った。あれだけ体をひねるのに軸足がぶれない。将来すごい投手になる可能性があると思った」と思い出を語った。

 ◇ソフトバンク・王監督

 日本野球が米国と比べ、そん色のないレベルにあることを示してくれた。そのことが、後の選手の意欲をかきたてた。

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 ■解説

 ◇日本球界の力証明--入札制度導入 移籍、一気に加速

 日本球界のエースだった野茂が、95年にドジャース入りしたことをきっかけに、日本球界は加速度的にグローバル化の波にのみ込まれることになった。

 90年に近鉄でデビューした野茂は、5年間で78勝をマーク。しかし複数年契約を求めるなどして球団と対立した末、任意引退の形で、95年に大リーグへ渡った。野茂以前、日本人大リーガーは64~65年にジャイアンツに在籍した村上雅則氏1人で、日本人選手が通用するかどうかは未知数だったが、野茂はメジャー1年目から最多奪三振のタイトルに輝き、新人王も受賞した。

 それまで「輸入」一辺倒だった日米間の移籍が、野茂の成功後に変わり、日本人選手の米国流出が一気に進んだ。さらにフリーエージェント(FA)権のない選手の移籍に関するルールが整備されていなかったため、ロッテのエースだった伊良部が、球団とけんか別れの形で渡米するなどトラブルが相次ぎ、98年のオフに「入札制度」(ポスティング・システム)が導入された。

 00年オフにはイチローが日本人選手として初めて入札制度でマリナーズ入り。06年オフには松坂が5111万ドル(約60億円=当時)の史上最高落札額でレッドソックスに入団した。経営難の日本球団が入札制度を利用し、高値で売れる時に手放そうとして、移籍の容認を早める動きが加速する傾向にある。

 選手供給源と市場の米国外への拡大を進めていた大リーグは、野茂の成功に刺激され、本格的に日本に目を向けた。さらに06年に開催された第1回の国・地域別対抗戦「WBC」で日本が優勝し技術の高さを証明したことで、日本人選手の人気に拍車がかかった。

 07年オフには、FA宣言した福留、黒田を巡り、日米球団が争奪戦を繰り広げたが、昨年の総収入が60億ドル(約6300億円)という好況を背景に圧倒的な資金力を誇る大リーグ側が、両選手とも獲得した。「野茂の開いた道」は、大リーグの思惑もあり、拡大する一方にある。【高橋秀明】

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 ◇野茂投手の歩み◇

1987・ 4 大阪・成城工高から新日鉄堺入社
  88・ 8 都市対抗野球で若獅子賞を受賞
      9 ソウル五輪(野球は公開競技)で銀メダルを獲得
  89・ 7 都市対抗野球で小野賞を受賞
     11 ドラフトで史上最多の8球団が競合。近鉄が指名権を得て入団
  90・ 4 プロ野球タイ記録(当時)の17奪三振でプロ初勝利
     10 最優秀選手、新人王、最多勝、防御率1位など8冠を獲得
  91・ 5 プロ野球記録の6試合連続2けた奪三振を達成
  93・10 4年連続で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得
  95・ 1 米大リーグ挑戦を訴えて近鉄を任意引退となり退団
      2 ドジャースと契約
      6 メッツ戦で大リーグ初勝利。6月の月間MVP受賞
      7 日本人選手で初のオールスター戦に出場。ナ・リーグの先発投手として2回を1安打無失点
     10 新人王、最多奪三振のタイトルを獲得
  96・ 9 ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成
     11 日米野球で米大リーグ選抜の一員として日本に凱旋(がいせん)
  98・ 4 ブルワーズ戦で日本人選手初の本塁打を放つ
      6 メッツへ移籍
  99・ 4 ブルワーズと契約
      9 ダイヤモンドバックス戦で米大リーグ通算1000奪三振を達成
2000・ 1 タイガースへ移籍
      4 初の開幕投手で白星
     12 レッドソックスへ移籍
  01・ 4 オリオールズ戦で2度目のノーヒット・ノーランを達成。両リーグでの達成は史上4人目
     10 最多奪三振のタイトルを獲得
     12 フリーエージェント宣言してドジャースへ復帰
  03・ 4 2度目の開幕投手
      4 ジャイアンツ戦で日本人初の米大リーグ通算100勝を達成
  05・ 1 6球団目(延べ7球団)となるデビルレイズ(現レイズ)へ移籍
      6 日米通算200勝を達成
      7 デビルレイズを解雇される。ヤンキースとマイナー契約
  06・ 3 ホワイトソックスとマイナー契約
      6 ホワイトソックスを契約解除される
  07・10 ベネズエラのウインターリーグに参加
  08・ 1 ロイヤルズとマイナー契約
      4 メジャー昇格。10日のヤンキース戦で1000日ぶりのメジャー登板。その後、2試合に登板するも結果を残せず、20日に戦力外通告
      7 現役引退を決意

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 ◇野茂の日米年度別成績◇

年度   所属       試合    勝   負 S  投球回        球     振    失    責   防御率
1990 近鉄       29 ★ 18   8 0  235      113 ★ 287   87   76 ★ 2.91
  91  〃       31 ★ 17  11 1  242回1/3  133 ★ 287   92   82   3.05
  92  〃       30 ★ 18   8 0  216回2/3  118 ★ 228   73   64   2.66
  93  〃       32 ★ 17  12 0  243回1/3  155 ★ 276  106  100   3.70
  94  〃       17    8   7 0  114       88   126   55   46   3.63
 【日本通算】      139   78  46 1 1051回1/3  607  1204  413  368   3.15
  95 ドジャース    28   13   6 0  191回1/3   83 ★ 236   63   54   2.54
  96  〃       33   16  11 0  228回1/3   87   234   93   81   3.19
  97  〃       33   14  12 0  207回1/3  101   233  104   98   4.25
  98  〃       12    2   7 0   67回2/3   41    73   39   38   5.05
     メッツ      17    4   5 0   89回2/3   57    94   49   48   4.82
  99 ブルワーズ    28   12   8 0  176回1/3   81   161   96   89   4.54
2000 タイガース    32    8  12 0  190       92   181  102  100   4.74
  01 レッドソックス  33   13  10 0  198       99 ★ 220  105   99   4.50
  02 ドジャース    34   16   6 0  220回1/3  103   193   92   83   3.39
  03  〃       33   16  13 0  218回1/3   99   177   82   75   3.09
  04  〃       18    4  11 0   84       46    54   77   77   8.25
  05 デビルレイズ   19    5   8 0  100回2/3   53    59   82   81   7.24
  08 ロイヤルズ     3    0   0 0    4回1/3    4     3    9    9  18.69
 【米国通算】      323  123 109 0 1976回1/3  946  1918  993  932   4.24
 【日米通算】      462  201 155 1 3027回2/3 1553  3122 1406 1300   3.86
 ※Sはセーブ、投球回は投球回数、球は与四死球、振は奪三振、失は失点、責は自責点、★はタイトル獲得

毎日新聞 2008年7月18日 東京朝刊


野茂引退:「今こそ胸張って」「おめでとう」…功績たたえ

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日米野球「全日本・米大リーグ第1戦」に先発、2回を投げて1失点の野茂英雄投手=東京ドームで、1990年11月02日撮影

 野茂の引退表明には惜しむ声と、功績をたたえる声が相次いだ。

 88年ソウル五輪投手コーチの山中正竹・横浜球団常務は、大リーグで活躍していた野茂に「野球界にとって王、長嶋クラスの功労者なのだから、活躍ができなくなっても堂々と胸を張っていなさい」と声を掛けたという。引退を決めた今こそ「胸を張って欲しい」と山中さんは呼びかけた。

 近鉄時代の先輩、吉井・日本ハム投手コーチは「大リーグでは引退した選手が復帰することはよくある。また復帰しちゃうかも」と話した。そのうえで「本当にやめるのなら『おめでとう』と言いたい。あれだけ成功したのだから」と、労をねぎらった。

 また、近鉄時代のコンディショニングコーチだった立花龍司・ロッテヘッドコンディショニングコーチは「絶対にトレーニングを休まない野茂を見て、トレーニングをする選手が増え、選手寿命を長くしてくれた」と野茂の野球に対する姿勢を評価。野茂が入団した時に仰木彬監督(当時)から「あいつは腰をひねって投げることで(ドラフト)1位で入ってきた。(フォームは)直させないから、壊れるかもしれん。しっかりトレーニングさせてくれ」と言われたという。投手の練習といえばキャッチボールとランニングくらいの時代。「日本で初めてトレーニングしながら投げた」と振り返った。

 社会人野球の新日鉄堺監督時代に野茂を発掘し、入社を勧めた浜崎満重さん(現宮崎・延岡学園高監督)が、初めて野茂の投球を見たのは大阪・成城工1年生の秋。「モノが違った。あれだけ体をひねるのに軸足がぶれない。将来すごい投手になる可能性があると思った」と思い出を語った。

毎日新聞 2008年7月17日 21時33分(最終更新 7月17日 23時25分)


野茂引退:JR北の高岡監督「野球人の生き様を見せてくれた」

 野茂英雄投手の引退表明について、かつて社会人野球で監督として対戦し、日本代表コーチで指導した経験があるJR北海道の高岡茂夫監督(58)は「挫折を味わっても限界に挑戦する精神は日本人の心。野球人としての生き様をみせてくれた」と、これまでの労をねぎらった。

 高岡監督は87年、たくぎん監督として初めて新日鉄堺の野茂投手と対戦。野茂投手はほぼ直球のみの投球だったが、「まったく打てなかった」という。プエルトリコで開かれたインターコンチネンタル大会(89年)では、日本代表コーチとして野茂投手と約3週間、生活をともにした。3度の食事をしっかり取り、遠投とキャッチボールで納得のいくボールが投げられるまでは決してブルペンに入らなかった。そうした投手としてのこだわりを目の当たりにした。高岡監督は「社会人野球での経験を生かして国際舞台で活躍してくれたのはうれしかった」「引退は惜しいが、貴重な経験をアマチュア球界に還元してもらいたい」と、第二の人生に期待を寄せた。【三沢邦彦】

2008年7月17日


野茂引退:球場外でも野球人貫き 企業廃部に受け皿作る

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NOMOベースボールクラブの本格的な活動を前に自らがデザインしたユニホームを披露する野茂英雄投手=東京都内で2004年1月22日、佐藤賢二郎撮影

 17日に現役引退を表明した元大リーガー、野茂英雄投手(39)の功績は、日米通算201勝の数字だけでは計れない。選手の受け皿拡大のため、地域密着の「NOMOベースボールクラブ」を設立するなど、プレー以外の活動にこそ、野球人としての志がうかがえる。

 02年に米独立リーグ球団の共同オーナーとなった野茂は、その年のオフ、国内選手向けに入団テストを行った。不況によるリストラなどで社会人野球の企業チームの休廃部が相次いだ時代。野茂が所属していた新日鉄堺(大阪)も94年に休部した。テストに集まった選手のレベルは想像以上に高く、野茂は「野球を続けたくても続けられない選手にチャンスを与えたい」との思いを強くした。

 03年春、堺市を拠点にするNPO(非営利組織)法人のクラブチーム「NOMOベースボールクラブ」を設立。監督に就任した社会人時代の先輩、清水信英さん(50)は当時を振り返り、「(02年冬)帰国した野茂と話した時、『クラブチームを作ったら監督をしてくれますか』と言う。翌朝、彼は新幹線で東京に向かう車内から電話で『お願いします』と言ってきた。二つ返事でOKしました」。

 NOMOクラブから、プロ入りの夢をつかんだのが、05年秋の大学・社会人ドラフト5巡目で中日に指名された柳田殖生(しげお)内野手(26)。柳田は「自分を拾ってくださった野茂さんに感謝しています。以前、会った時は、『夢をあきらめないで』と言われました」と話す。柳田選手は07年6月に1軍デビューし、プロ初本塁打も放った。

 野球を続けたくても、続ける環境に恵まれない選手はたくさんいる。清水さんは「受け皿のない地域に第二、第三のNOMOクラブを作りたいと、あいつは思っています」と、野茂の第二の人生の夢を、野茂に代わって誇らしげに語った。【井沢真】

毎日新聞 2008年7月17日 22時10分(最終更新 7月18日 1時13分)


野球:野茂英雄が現役引退 HPで表明 日米で201勝

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現役引退することが明らかになった野茂英雄投手=2007年12月5日、カラカス市内のウニベルシタリオ球場で庭田学撮影

 日本人選手の米大リーグ移籍に道筋をつけ、日米通算201勝を挙げた元大リーガーの野茂英雄投手(39)が17日、現役引退することを明らかにした。同日、自身の公式ホームページで表明した。

 野茂投手は今季、ロイヤルズとマイナー契約を結び、開幕直後に3年ぶりとなる米大リーグ昇格を果たした。しかし、中継ぎで3試合に登板しただけで、4月20日に戦力外通告を受けた。現役続行の道を探ったが、獲得に乗り出す球団はなく、引退を決意したとみられる。

 野茂投手は大阪・成城工高から社会人・新日鉄堺に入社。88年の第59回都市対抗野球で若獅子賞(新人賞)を獲得したほか、88年ソウル五輪では、日本代表として銀メダル獲得に貢献した。90年ドラフト1位で近鉄入団。体を大きくひねる「トルネード投法」で話題を集め、新人王や、入団から4年連続で最多勝・最多奪三振のタイトルを獲得した。

 94年オフに近鉄を任意引退の形で退団し、ドジャースに入団。村上雅則氏(ジャイアンツ)に次ぐ日本人2人目の大リーガーとなり、95年シーズンに13勝6敗で新人王を獲得。「ノモマニア」と呼ばれる熱狂的なファンも現れた。96年には日本人投手として初めて、大リーグで無安打無得点試合(ノーヒット・ノーラン)を達成。01年に2度目を達成し、ナショナル、アメリカンの両リーグで記録した史上4人目の選手ともなった。日本プロ野球での通算成績は78勝46敗1セーブ、米大リーグでは123勝109敗だった。【村田隆和】

毎日新聞 2008年7月17日 19時17分(最終更新 7月18日 0時34分)
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