Peace Declaration
広島・長崎原爆の日
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記者の目:生かされていなかった広島被爆カルテ=辻加奈子

 原爆の脅威は、熱線、爆風、放射線と3種類に大別できるが、人間の感覚でとらえられない放射線による被ばく死は、今も遺族らの間に謎の死として記憶されている。毎日新聞は今夏、原爆投下直後に治療にあたった東広島市の傷痍(しょうい)軍人広島療養所(現東広島医療センター)の19人分のカルテを独自に入手した。いずれも被爆時はたいしたけがはなく助かったはずが、やがて体調を崩し、被爆後数週間から1カ月で亡くなった人たちのものだ。被ばく死の解明は進められてきたが、現代の被ばく医療の視点からこの死をどう説明できるかを取材すると、意外に現在の研究に当時の資料が生かされていないことが分かった。

 「原爆の悪いガスを吸うたんじゃなかろか」。カルテの一人、広島市水主町(かこまち)(当時)の警察練習所で被爆し、約1カ月後に亡くなった岩井義雄さん(当時33歳)の妻日子(てるこ)さん(89)=山口県岩国市=は、夫の死因について今も首をひねる。被爆で大やけどしたしゅうとめが生き延びたのに、額に少し傷があっただけの夫が死んだのは「不思議で仕方なかった」と話す。

 「ガス」と表現する遺族は日子さんだけではない。被爆後何日もたってから突然脱毛し、高熱を出して亡くなる様子を見て、当時は毒ガス説が出た。伝染病説もあった。放射線による被害の分かりにくさを示していると思う。

 このカルテの分析を、99年に起きた核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県)の臨界事故で緊急治療にあたった東大名誉教授、前川和彦氏(68)ら3人に依頼した。結果は7月30、31日大阪本社版朝刊(東京本社版は31日のみ)で報告したように、白血球が減少して感染症や敗血症にかかり死亡する、急性放射線障害だった。

 それ自体は既に分かっていたことだが、現代の知見から被ばく線量は2~6グレイと推定された。4グレイなら50%が死亡、7グレイ以上なら100%死亡とされるから、今ではまったく謎の死ではなかった。

 一方、爆心地からの距離と遮へい物の有無などからの物理的計算式「DS02」では、岩井さんの被ばく線量は2グレイ程度だった。他のカルテの人でも、医学的な被ばく線量の見立ての方が上回る傾向にあった。警察官として市内にとどまり、さらに被ばくしたことなどが理由だと思う。今回の検討だけで結論は出せないが、カルテを再検討することで被ばくの実態をさらに正確につかめるのではないか。

 今なら岩井さんらを救えたかについても検討された。JCO事故では血液を作り出す元となる造血幹細胞が移植されたが、今回のカルテの患者なら移植は不要で、集中治療と、造血細胞を刺激するサイトカイン療法が有効という。

 しかし、これは限定された人数の患者に最新医療で対応できた場合のことだ。また放射線は長期にわたって人体をむしばむ側面がある。これには、有効な対応策が今もない。結局、前川氏の結論は「一定数の患者の急性期の救命はできる」というものだった。

 一方、前川氏らカルテを見た医師らは「物資がない時代に、誠心誠意の治療が尽くされている」と驚いていた。白血球増を狙う刺激療法としての異型血液の輸血などは、現代ではリスクが高く行われないが、未知の症状への果敢な対処と評価すべきだという。

 電話局で被爆して死亡した女性の妹(78)は、看病で付き添っていたから当時の様子が分かる。「死亡前日に250CCの献血」とあるカルテを見て、「看護婦さんが血をくれたのでしょう。本当にありがたい」と目を潤ませた。

 前川氏らによると、こうしたカルテの存在は医療関係者にもあまり知られず、研究に生かされていないという。前川氏は「こういうものを伝承する文化を持たなくては」と反省していた。被ばく研究は、遺伝子解析などを追究しがちで、被爆当時の資料を見直すことが少ないからだ。

 先月には東京の病院で、太平洋ビキニ環礁での水爆実験で被ばくし死亡した第五福竜丸の元無線長、久保山愛吉さんのカルテが見つかったが、被爆者治療に詳しい鎌田(かまだ)七男(ななお)・広島大名誉教授は「なぜ行方不明になっていたのか。恥ずかしいことだ」と、過去の資料を重んじない姿勢を批判した。さらに広島療養所のカルテなど資料の研究を積み重ねれば、「原発事故など、患者が大量に出た場合の治療優先順位の決定(トリアージ)で役立つ」と述べた。カルテは個人情報で、無制限な公開は難しいかもしれないが、研究に生かすのが当然だろう。

 当時の貴重な資料は他にもあるはずだ。少しずつでも探し出し、報道していきたい。原爆の悲劇を繰り返さないため、当時の資料を今に生かすことが求められている。(大阪地方部)

毎日新聞 2009812日 017


平和市長総会:核兵器廃絶へ日本は主導を

 長崎市で過去最多の134都市(18カ国)の市長らが参加して開かれた第7回平和市長会議総会は10日、核兵器廃絶に向けた多国間協議などを求める「ナガサキアピール」を採択し、閉会した。次回総会は13年に広島市で開かれる。

 アピールでは、核拡散防止条約(NPT)再検討会議や国連総会などを通し、核兵器廃絶に向け積極的な交渉を2010年に開始するよう国際社会に要請。特に「唯一の被爆国として、日本は核兵器のない世界に向けたグローバルな運動を主導していくべきだ」と、日本政府に積極的な取り組みを求めた。

 さらに、オバマ米大統領のプラハ演説を支持し、「皆で協力し合えば核兵器を廃絶できる」と呼応。各国政府や国連に対し、すべての軍による人口密集地域での爆弾使用禁止や、都市の意思が直接国連決議に反映される仕組み作りを求めた。

 また、同会議は今後の重点的取り組みとして、核保有国指導者に10年に広島、長崎両市を訪問するよう要請することや、被爆者のメッセージを世界に伝えるために「広島・長崎講座」を開設するよう世界の教育機関に呼びかけることを宣言した。【阿部弘賢】

毎日新聞 2009810日 2014


長崎原爆の日:聖歌歌い鎮魂、たいまつ行列

 64回目の原爆の日を迎えた長崎では9日夜、カトリック信徒たちによる「たいまつ行列」があった。参加者約1000人は原爆で全壊した旧・浦上天主堂の「被爆マリア像」を聖座に載せ、平和公園から出発。浦上天主堂までの約1キロを聖歌を歌うなどしながら歩いていった。【蒲原明佳】

毎日新聞 2009810日 大阪朝刊


長崎原爆の日:我孫子の中学生、長崎で慰霊 6人が平和学習 /千葉

 我孫子市の中学生6人が9日、長崎市であった長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に初めて出席した。午前11時2分の原爆投下時刻に黙とうし、平和への思いを新たにしていた。

 市が平和学習の一環として派遣した。市内6中学から2年生の男子生徒3人、女子生徒3人が出席した。

 式典終了後、久寺家中の小川叡(あきら)さん(14)は「首相や外国の方など、多くの人が参加していたので驚いた。世界の平和を願う人が注目していることがわかった」と感想を話した。

 また、我孫子市から広島市に派遣されたことがある成蹊大1年、今井瑞萌(みずほ)さん(19)は今回、引率で参加。「このような式典を通して、私たちが原爆の恐ろしさを伝えていかなくてはいけない」と語った。【野呂賢治】

毎日新聞 2009810日 地方版


長崎原爆の日:犠牲者の冥福祈る 核廃絶呼びかけ--鹿屋の団体 /鹿児島

 64回目の「長崎原爆の日」の9日、鹿屋市の市民団体「反戦・反核・平和運動をすすめる大隅市民の会」(上山陸三代表)は、同市本町のイベント広場で集会を開き、犠牲者を追悼した。

 大隅地区の元教職員ら約40人が参加。上山代表(77)はオバマ米大統領の核廃絶宣言に触れ「核抑止論に代わり、核廃絶論が世界の主な潮流になっている」と指摘。更なる核廃絶運動を呼びかけた。

 原爆が投下された午前11時2分、全員で黙とう。犠牲者の冥福を祈り、核兵器全廃を改めて誓った。【新開良一】

毎日新聞 2009810日 地方版


長崎原爆の日:犠牲者悼み、反核訴え ここを最後の被爆地に(その1) /長崎

 64回目の原爆の日を迎えた9日、長崎は鎮魂の祈りに包まれた。長崎市松山町の平和公園で営まれた長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典では、被爆者や遺族、市民、観光客らが平和への誓いを新たにした。市内各所では、早朝から夜遅くまで、さまざまな追悼や反核の行事も行われた。オバマ米大統領の登場で、核兵器廃絶の機運が盛り上がる中、「ナガサキを最後の被爆地に」の声は一段と高まった。

 ◇後世に伝える被爆体験 奥村さん「平和への誓い」


 「1945年8月9日11時2分、原爆が投下され、一瞬の出来事に逃げることもできず、炭のように体を焼かれ、一口の水も飲むこともできずに亡くなった多くの人々よ、どんなにか無念だったでしょうね」--。

 9日、被爆者代表として式典に臨んだ奥村アヤ子さん(72)=長崎市城栄町=は、つらい気持ちを押し殺すように、静かに「平和への誓い」を読み始めた。

 当時8歳だった奥村さんは爆心地から500メートルの城山にあった自宅近くの柿の木の下で遊んでいた。突然のまばゆい、せん光。奇跡的に右腕のやけどだけで済んだが、自宅があった辺りに戻ると、自宅はおろか、12~13戸あった集落は跡形もなくなっていた。

 家族9人は、全身やけどの4歳の弟と奥村さんを残して全員死亡。2人は面識のない遠縁に引き取られた。その弟も2カ月半後に亡くなり、奥村さんは1人ぼっちになった。

 全身に放射能を浴びたせいで、髪の毛は抜け、歯茎からも出血。病院には連れていってもらえなかった。両親も兄弟もいない生活。原爆の記憶から逃げたい一心で、原爆を「自分の中に閉じこめていた」という。

 しかし、約半世紀がたち、孫が生まれたことや被爆死した姉の同級生と再会したことなどが重なり、20年ほど前に被爆体験を書いた。そして「城山で家族が生きていたことを伝えないと、生きている意味がない」と思い直し、修学旅行生らに被爆体験を語り始めた。

 肝機能障害などを患い、今も体調は優れない。「明日、生きているだろうか」と不安の日々を過ごしてきた。そうした中でのオバマ米大統領の登場。「やっと被爆者の声が届いた」と喜んだ。

 式典を終えた奥村さんは「原爆で一人ぼっちになった子はつらくて、悲しくて、体験を話せない。だから私はみんなを代表するつもりで話しました。短い時間でしたが、言いたいことは全部言えました」と安堵(あんど)の表情を見せた。【阿部弘賢、門田陽介】

 ◇長崎日大ナインも黙とう


 夏の甲子園大会に出場している県代表の長崎日大の選手たちは9日午前11時2分、宿泊している大阪府堺市のホテルで、長崎に向かって1分間黙とうした。

 選手たちは6階のテニスコートで素振りをしていたが、練習を一時中断。ベンチ入りの選手ら約30人が1分間、静かに目を閉じた。

 金城孝夫監督は「長崎県民として平和のあり方を考える大切な日。甲子園だからとかではなく、常に平和を願いたい」と話した。

 この日阪神甲子園球場で予定されていた4試合の雨天順延に伴い、10日第4試合に予定されていた花巻東(岩手)との対戦は、11日第4試合に順延された。【西嶋正法】

 ◇慰霊の「万灯流し」--浦上川


 爆心地近くの浦上川に手作りの灯ろうを流し、原爆犠牲者の霊を慰める「万灯(まんとう)流し」が9日夜あった。万灯は木枠で組まれ、「平和之灯」「世界中の国が仲良くなれる!」「生きてるって幸せなこと」などと書いた和紙の中にろうそくが灯(とも)った。地元自治会などが開催し、今年で11回目。

 原爆投下直後、熱線や爆風などで全身にやけどをした多くの被爆者が、のどの渇きを潤そうとするなどして浦上川に集まり、そのまま亡くなったとされる。約700個の灯ろうがゆっくりと川面を流れていく様子を、訪れた人たちは手を合わせながら見送った。【野呂賢治】

 ◇折り紙「千羽ペンギン」5万羽を寄贈--平和公園に


 「長崎ペンギン水族館」(長崎市)や、ペンギン愛好家でアート展などを手掛ける大田美智子さん(55)=兵庫県芦屋市=らが9日、折り紙のペンギンを集めた「千羽ペンギン」5万4830羽を平和公園に贈った。

 平和への願いを込めたもので、同水族館は来館者に4900羽を折ってもらった。大田さんは知人から送ってもらうなどして、約4万羽を集めた。贈ったのは今年で8回目だが、今回、初めて5万羽を突破した。

 大田さんは「ペンギンは環境保護のバロメーター。平和を考えるのにぴったり」。水族館の飼育員、松村朱加(あやか)さん(23)は「多くの人に送っていただき、ありがたい」と話していた。【錦織祐一】

〔長崎版〕

毎日新聞 2009810日 地方版


長崎原爆の日:犠牲者悼み、反核訴え ここを最後の被爆地に(その2止) /長崎

 ◇平和市長会議、米アクロン市長ら献花

 ◇被爆者体験談に揺れた「オバマ大統領も参加すべき」

 式典では、平和市長会議を代表して、米アクロン市のドナルド・プラスカリック市長らが献花。プラスカリック市長は式典終了後の取材に対して「被爆者代表が話した体験談に揺さぶられた。オバマ大統領もいつか式典に参加するべきだ」と語った。

 また、長崎大に留学しているアフガニスタン人のマスード・アクバリさん(30)は「平和を願うすべての人はここに来るべきだ。私の国では30年も戦争が続いているが、式典に参加できたことは一生忘れない」と話していた。

 また、会場にはマラソン仲間と広島から「平和のリレー」をして9日朝、長崎入りした東京都北区の落語家、三遊亭楽松さん(45)が姿を見せた。楽松さんは「人類最後の被爆地(長崎)から最初の被爆地(広島)に戻って核兵器を封印」するため、式典終了後に休む間もなく広島に向けて出発した。【門田陽介】

 ◇「人間の鎖」平和願う--1万人署名、早朝若者集会


 核兵器廃絶を求める「高校生1万人署名活動」による早朝若者集会が9日午前6時半から、長崎市の爆心地公園であった。

 長崎をはじめ、鹿児島、神奈川、福岡、熊本県や韓国の高校生ら約60人が参加した。筑紫女学園高(福岡市)2年、大神櫻子さん(16)が「64年前のことを忘れず、心を一つにして平和を発信したい」と決意表明。メンバーは原爆落下中心碑を「人間の鎖」で囲んで平和を願う歌を歌った。

 今年の「高校生平和大使」で、佐世保高専3年の中島彩希さん(18)は「原爆の日を長崎で迎えるのは初めてで、市民の皆さんの強い思いが伝わる。やる気がわいてきた」と語った。メンバーはこの後、県内各地で署名集めをした。【錦織祐一】

 ◇「国際活動の医師育成を」 長崎大学で慰霊祭


 長崎大医学部(長崎市坂本)と教育学部(同市文教町)の原爆犠牲者慰霊祭が9日、それぞれ現地であった。

 医学部の慰霊祭には松山俊文・学部長ら約400人が参列。長崎医専2年生の時に被爆した井手一郎さん(85)=佐世保市相浦町=が当時を回想し、「(被爆死した)友人の弟をまきを積んでだびに付し、いつまでも焼けなかったことを覚えている」などと話した。

 参列者献花のあと、山下俊一・大学院医歯薬学総合研究科長が講話。チェルノブイリ原発事故など在外被爆者治療や研究を続けている山下科長は「旧ソ連では、500回近い地上・地下核実験の放射能被爆で親子3代が後遺症に苦しんでいる。私たちは地道な国際医療活動に挑戦する医師たちを育成しなければならない」と呼び掛けた。【古賀亮至】

 ◇千葉の中学生、式典で黙とう


 千葉県我孫子市の中学生6人が9日、式典に初めて出席。午前11時2分の原爆投下時刻に黙とうし、平和への思いを新たにしていた。

 我孫子市が平和学習の一環として派遣。市内6中学から2年生の男子生徒3人、女子生徒3人が出席した。

 式典終了後、久寺家中の小川叡(あきら)さん(14)は「首相や外国の方など、多くの人が参加していたので驚いた。世界の平和を願う人が注目していることがわかった」と感想を話した。

 また、市から広島に派遣されたことがある成蹊大1年、今井瑞萌(みずほ)さん(19)は今回、引率で参加。「このような式典を通して、私たちが原爆の恐ろしさを伝えていかなくてはいけない」と語った。

 ◇城山小の5・6年生「子らのみ魂よ」合唱


 9日の式典では、長崎市立城山小の5、6年生児童計50人が、犠牲になった子どもたちを慰霊する歌「子らのみ魂よ」を合唱した。

 同小は爆心地から約500メートルの丘にあり、1400人余りの児童が原爆で亡くなった。歌は1951年から同校で歌い継がれており、会場では平和を願う児童の清らかな声が青空に響き渡った。

毎日新聞 2009810日 地方版


Celebrity Masaharu Fukuyama reveals hibakusha background

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Masaharu Fukuyama (Mainichi)

Popular singer and actor Masaharu Fukuyama revealed that he is a second-generation A-bomb victim for the first time during his radio show on Sunday, the 64th anniversary of the A-bombing of Nagasaki.

"Aug. 9, 1945 was the day when the second of the only two A-bombs thrown on Earth was dropped," said 40-year-old Fukuyama at the beginning of his show.

"My father bore the brunt of the A-bombing, and technically, my mother is also a victim of the bombing. So that means I am the second-generation hibakusha," he said.

(Mainichi Japan) August 10, 2009


福山雅治さん:「僕は長崎被爆2世」 ラジオ番組で語る

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福山雅治さん

 長崎市出身の歌手で俳優の福山雅治さん(40)が「長崎原爆の日」の9日、ラジオ番組で、両親が長崎原爆で被爆している被爆2世であることに触れ、平和について語った。

 福山さんはこの日午後、エフエム東京をキー局に全国に放送された番組「福山雅治のSUZUKI Talking F.M.」の冒頭「1945年8月9日に、地球上で二つしか投下されたことのない原爆の二つ目が投下された日でもあります」と語り始めた。

 続いて「僕の父親はもろに被爆しましたからね。母親も、まあ厳密に言うと被爆してることになるんですよね。だから僕は被爆2世ということになるんです」と話した。

 最後に「いつの世も争いごとというものはなくならず存在するのですが、なくなることこそが人間のみが持ち得る能力の到達点なのではないかと思います。『争わない』ところにいつか行けるといい」と結んだ。

 福山さんは9日の福岡市でのコンサートでも長崎原爆の日に触れ、核廃絶と平和の堅持を訴えた。コンサートに来た福岡県中間市の女性会社員は「60年もたつと消え去っていく事実を、有名人が改めて先頭に立ち、発言するのは、すごく意味があると思った。福山さんの人間性が出ていると思った」と話していた。【錦織祐一、夫彰子】

毎日新聞 2009810日 230分(最終更新 812日 1506分)


長崎原爆の日:長崎平和宣言(全文)

 今、私たち人間の前にはふたつの道があります。

 ひとつは、「核兵器のない世界」への道であり、もうひとつは、64年前の広島と長崎の破壊をくりかえす滅亡の道です。

 今年4月、チェコのプラハで、アメリカのバラク・オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと明言しました。ロシアと戦略兵器削減条約(START)の交渉を再開し、空も、海も、地下も、宇宙空間でも、核実験をすべて禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTBT)の批准を進め、核兵器に必要な高濃縮ウランやプルトニウムの生産を禁止する条約の締結に努めるなど、具体的な道筋を示したのです。「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的な責任がある」という強い決意に、被爆地でも感動がひろがりました。

 核超大国アメリカが、核兵器廃絶に向けてようやく一歩踏み出した歴史的な瞬間でした。

 しかし、翌5月には、国連安全保障理事会の決議に違反して、北朝鮮が2回目の核実験を強行しました。世界が核抑止力に頼り、核兵器が存在するかぎり、こうした危険な国家やテロリストが現れる可能性はなくなりません。北朝鮮の核兵器を国際社会は断固として廃棄させるとともに、核保有5カ国は、自らの核兵器の削減も進めるべきです。アメリカとロシアはもちろん、イギリス、フランス、中国も、核不拡散条約(NPT)の核軍縮の責務を誠実に果たすべきです。

 さらに徹底して廃絶を進めるために、昨年、潘基文(バン・ギムン)国連事務総長が積極的な協議を訴えた「核兵器禁止条約」(NWC)への取り組みを求めます。インドやパキスタン、北朝鮮はもちろん、核兵器を保有するといわれるイスラエルや、核開発疑惑のイランにも参加を求め、核兵器を完全に廃棄させるのです。

 日本政府はプラハ演説を支持し、被爆国として、国際社会を導く役割を果たさなければなりません。また、憲法の不戦と平和の理念を国際社会に広げ、非核三原則をゆるぎない立場とするための法制化と、北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現の方策に着手すべきです。

 オバマ大統領、メドベージェフ・ロシア大統領、ブラウン・イギリス首相、サルコジ・フランス大統領、胡錦濤・中国国家主席、さらに、シン・インド首相、ザルダリ・パキスタン大統領、金正日(キム・ジョンイル)・北朝鮮総書記、ネタニヤフ・イスラエル首相、アフマディネジャド・イラン大統領、そしてすべての世界の指導者に呼びかけます。

 被爆地・長崎へ来てください。

 原爆資料館を訪れ、今も多くの遺骨が埋もれている被爆の跡地に立ってみてください。1945年8月9日11時2分の長崎。強力な放射線と、数千度もの熱線と、猛烈な爆風で破壊され、凄(すさ)まじい炎に焼き尽くされた廃墟(はいきょ)の静寂。7万4000人の死者の沈黙の叫び。7万5000人もの負傷者の呻(うめ)き。犠牲者の無念の思いに、だれもが心ふるえるでしょう。

 かろうじて生き残った被爆者にも、みなさんは出会うはずです。高齢となった今も、放射線の後障害に苦しみながら、自らの経験を語り伝えようとする彼らの声を聞くでしょう。被爆の経験は共有できなくても、核兵器廃絶を目指す意識は共有できると信じて活動する若い世代の熱意にも心うごかされることでしょう。

 今、長崎では「平和市長会議」を開催しています。来年2月には国内外のNGOが集まり、「核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」も開催します。来年の核不拡散条約再検討会議に向けて、市民とNGOと都市が結束を強めていこうとしています。

 長崎市民は、オバマ大統領に、被爆地・長崎の訪問を求める署名活動に取り組んでいます。歴史をつくる主役は、私たちひとりひとりです。指導者や政府だけに任せておいてはいけません。

 世界のみなさん、今こそ、それぞれの場所で、それぞれの暮らしの中で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め、「核兵器のない世界」への道を共に歩んでいこうではありませんか。

 原子爆弾が投下されて64年の歳月が流れました。被爆者は高齢化しています。被爆者救済の立場から、実態に即した援護を急ぐように、あらためて日本政府に要望します。

 原子爆弾で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、核兵器廃絶のための努力を誓い、ここに宣言します。

 2009年(平成21年)8月9日

                     長崎市長 田上富久

毎日新聞 200989日 2355


長崎原爆の日:平和への誓い(全文)

 1945年8月9日11時2分、原爆が投下され一瞬の出来事に逃げることもできず、炭のように体を焼かれ、一口の水も飲むこともできずに亡くなった多くの人々よ、どんなにか無念だったでしょうね。

 64年前と同じ8月9日が、蝉(せみ)の声と共にまためぐってきました。当時8歳だった私は、爆心地から500メートル離れた城山町に新しい家を建ててもらい、家族9人で賑(にぎ)やかに、楽しく、そして幸せに暮らしていました。その朝までは家族一緒だったのに「考えられない11時2分」がやってくるのです。その朝まで元気だった家族、一緒に遊んでいた友達が、私の目の前から消えてしまいました。

 その後、毎日泣いていました。46年間、原爆の話ができませんでした。原爆のことは、見たくない、聞きたくない、私の頭の中から消えてほしい……、私は、原爆から逃げていたのです。けれども、私の家族が生きていたことを書き残したくて、ある本の中に、旧姓徳永アヤ子の名前で私の体験を書きました。これがきっかけとなり、私は今、修学旅行の皆さんに被爆体験を伝えています。

 全身火傷を負った4歳の弟と私だけが生き残り、知らない田舎に引き取られました。母がいたら「おんぶしてよ、抱っこしてよ」と弟は甘えたかったでしょうに、甘えることもできず、治療のときは我慢できずに泣いていました。私も腕に火傷をしていましたが自分の治療のことは覚えていません。たぶん弟と一緒に泣いていたんでしょう。

 弟は自分の体の痛みを我慢するだけ我慢し、地獄のような苦しみだけを背負って昭和20年10月23日に亡くなりました。わずか4年の短い弟の人生でした。

 私は戸外で遊んでいましたので、全身に放射線を浴びていました。髪の毛は抜け、歯茎からは出血し、体全身具合が悪いのに、病院に通うことができませんでした。両親や兄弟がいない生活は地獄そのものでした。このような苦しみ、悲しみは他の人たちに味わわせたくありません。何十年たっても消えることのない苦しみと悲しみを生み出す核兵器は地球上にはいらないのです。

 アメリカは核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として行動する道義的責任があり、核兵器のない世界の実現を目指すことを、アメリカ大統領として初めて明確にしたオバマ大統領のプラハでの演説は、64年目にしてやっと被爆者の声が世界に届いた形となり、心強く感じています。

 私は世界中の人々と一緒に、この地球上から核兵器をなくして安心して暮らせるように、一人でも多くの人に平和と命の尊さを伝え続けていくことを誓います。

 平成21年8月9日

                   被爆者代表 奥村アヤ子

毎日新聞 200989日 2333


長崎原爆の日:1000人が鎮魂のたいまつ行列

200989 2143分 更新:89 2153

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平和を祈り、被爆マリア像とともに浦上天主堂へと続くたいまつ行列=長崎市で2009年8月9日午後7時30分、徳野仁子撮影

 64回目の原爆の日を迎えた長崎では9日夜、カトリック信徒たちによる「たいまつ行列」があった。参加者約1000人は、原爆で全壊した旧・浦上天主堂の「被爆マリア像」を聖座に載せ、原爆犠牲者たちに鎮魂の祈りをささげながら市街地をパレードした。

 たいまつ行列は被爆者や信徒の高齢化を理由に92年に途絶えたが、被爆60年の05年に復活。被爆マリア像は07年からパレードに登場するようになった。

 平和公園での出発セレモニーの後、パレードは出発。浦上天主堂までの約1キロを参加者全員が賛美歌を歌うなどしながら厳粛な面持ちで歩いていった。【蒲原明佳】


長崎原爆の日:「核兵器のない世界」へ共に歩もう市長

200989 1135分 更新:89 2114

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平和祈念像の前で「千羽鶴」を合唱する純心女子高の生徒たち=長崎市の平和公園で2009年8月9日午前11時45分、徳野仁子撮影

 オバマ米大統領の登場で、「核のない世界」に向けた機運が高まる中、長崎は9日、64回目の原爆の日を迎えた。爆心地に近い平和公園では長崎市主催の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典があり、被爆者や市民らが犠牲者を悼み、世界の恒久平和を祈った。平和宣言を読み上げた田上富久市長は、核保有国の指導者らの名を挙げ、「被爆地・長崎へ来て、跡地に立ってみてください」と要請。麻生太郎首相も「核兵器廃絶の実現に向け、国際社会の先頭に立つことを誓う」と決意を述べた。

 午前10時40分に始まった式典には、被爆者や遺族、市民ら約6000人が参列。麻生首相や鳩山由紀夫民主党代表ら政党代表のほか、海外から過去最多29カ国の政府代表と、長崎市で開催中の平和市長会議の参加市長らも出席した。

 この1年間に死亡が確認された3304人の名前が書かれた原爆死没者名簿3冊を奉安。これで死没者は14万9266人になった。原爆投下時刻の同11時2分には全員で1分間の黙とうをささげた。

 田上市長は平和宣言の中で、オバマ米大統領や金正日(キムジョンイル)北朝鮮総書記ら核保有国・疑惑国の指導者10人の名を挙げ、長崎を訪問し、被爆の実相を見るよう要請。また世界の人々に対して「それぞれの場所で、プラハ演説への支持を表明する取り組みを始め、『核兵器のない世界』への道を共に歩んでいこう」と呼び掛けた。

 「平和への誓い」を読み上げた被爆者代表の奥村アヤ子さん(72)は、9人家族でただ一人生き残った体験を証言。「両親や兄弟がいない生活は地獄そのもの。このような苦しみ、悲しみは他の人たちに味わわせたくありません」と述べた。

 麻生首相はあいさつの中で、非核三原則の堅持を誓い、原爆症訴訟の原告団と訴訟終結の合意にいたった経緯を報告。「日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければならない」と決意を述べた。

 同市は式典に核保有国の駐日大使らを招請したが、ロシアの総領事だけが出席した。

 式典前には会場でさまざまな関連行事があり、被爆者でつくる合唱グループが追悼と平和の祈りを込めた歌声を響かせた。【阿部弘賢】


原爆投下:米で6割「正しかった」 高齢ほど支持--大学世論調査

 【ニューヨーク共同】米キニピアック大(コネティカット州)は4日、第二次大戦末期の米軍による広島、長崎への原爆投下について、米国内で61%が「正しかった」と回答し「間違っていた」は22%だったとの世論調査結果を発表した。

 それによると、党派別では「正しかった」は共和党支持者の74%で、民主党支持者の49%を大きく上回った。

 年齢別に見ると「正しかった」は55歳以上が73%だったが、35~54歳が60%、18~34歳が50%と、年齢が下がるほど原爆投下への支持は低下。男女別では「正しかった」は男性72%、女性51%だった。

 同大のピーター・ブラウン氏は「第二次大戦の恐怖を記憶している有権者は(原爆投下の決定を)圧倒的に支持するが、若くなるにつれて支持が落ちている」と分析している。

 調査は7月27日~8月3日、全米の有権者2409人を対象に実施した。

毎日新聞 200989日 東京朝刊


原爆投下:米の6割「正しかった」 高年齢ほど支持

 米キニピアック大(コネティカット州)は4日、第二次大戦末期の米軍による広島、長崎への原爆投下について、米国内で61%が「正しかった」と回答し「間違っていた」は22%だったとの世論調査結果を発表した。

 それによると、党派別では「正しかった」は共和党支持者の74%で、民主党支持者の49%を大きく上回った。「間違っていた」は、共和党13%、民主党29%だった。

 年齢別に見ると「正しかった」は55歳以上が73%だったが、35~54歳が60%、18~34歳が50%と、年齢が下がるほど原爆投下への支持は低下。男女別では「正しかった」は男性72%、女性51%だった。

 同大のピーター・ブラウン氏は「第二次大戦の恐怖を記憶している有権者は(原爆投下の決定を)圧倒的に支持するが、冷戦時代に核の恐怖の中で育った世代など、若くなるにつれて支持が落ちている」と分析している。

 調査は7月27日~8月3日、全米の有権者2409人を対象に実施した。(共同)

毎日新聞 200988日 2041


長崎原爆:命くれた最初で最後の手紙 被爆死同級生、64年後の初公開
 ◇八月九日、あれからどうしましたの?また会いましょう

 「八月九日、あれからどうしましたの? いずれ学校もあることでしょう。その時会いましょう」。原爆投下時、県立長崎高等女学校4年生だった柳原英子(えいこ)さん(79)=同県長与町=は、同級生だった宮津弘子さん(故人)から64年前にもらった手紙を大切に手元に置いている。「私だけ生き残ってごめんなさい」。再会を果たせなかった友と心の中で会話する。

 2人は、爆心地から約1・2キロの兵器工場で働いている時、閃光(せんこう)を浴びた。工場はめちゃくちゃに壊れ、ほこりで辺りは真っ暗闇に。手探りで何とか逃げ出し、変わり果てた街で、偶然お互いを見つけた。足を負傷した柳原さんに、宮津さんはつえ代わりの棒を探して渡して助けてくれた。夕方、互いの家族を探すため別れた。「また会いましょう」。柳原さんは宮津さんの後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

 長与町の自宅に帰ると、数日間に大量の髪が抜け、体に紫色の斑点が出た。「死ぬのかな」。病床で弱気になっている柳原さんに9月10日ごろ、宮津さんから手紙が届いた。3枚の便せんにきれいな字がびっしりと書かれ、近況を報告するとともに柳原さんの状況を尋ねていた。柳原さんは1週間以上かけて返事を書いた。

 1カ月後--。宮津さんの父親から届いた手紙は残酷だった。「どうぞ薄命な弘子の冥福を祈ってください」。外傷もなく、元気に見えた宮津さんは9月8日に突然発症し、返信を待たずに亡くなっていた。宮津さんからの最初の手紙は最後の手紙となった。

 それから64年。結婚と離婚、何度かの引っ越しを経験した。そばには「お守り」のように手紙があった。「寂しい時や生きるのがつらくなった時、手紙を読むと優しかった彼女と話しているようで元気になれるの」。茶色に変色した手紙は友人にもほとんど見せたことがなかったが、初めて公開することにした。「戦争や原爆は絶対いや。彼女は生きたくても生きられなかった。若い人に彼女の思いを感じてほしい」

 手紙は9日まで、長崎原爆資料館(長崎市平野町)で展示されている。無料。【阿部弘賢】

毎日新聞 200988日 西部朝刊


ひと:旧浦上天主堂撤去の謎に迫る 高瀬毅さん

 「見てください。戦後64年たった今でも頑丈に建っている。なぜ取り壊さなければならなかったのか」

 原爆で破壊された旧浦上天主堂(長崎市)の一部は元の場所から南西約500メートルの爆心地公園に移されているが、目を留める人は少ない。「そのまま保存されていたら、核兵器の非人道性を訴える力はもっと強かったはずです」

 7月に出版した「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(平凡社)が反響を呼んでいる。長崎市は旧天主堂の廃虚を保存する方針だった。1955年に米セントポール市と日米初の姉妹都市となり、翌年に当時の田川務市長(故人)が訪米すると突然「撤去」に方針転換。市議会が全会一致で「保存」を求めたが58年に壊された。

 自身は被爆2世。廃虚となっても荘厳さの残る旧天主堂の写真に「神の啓示のようだった」と衝撃を受け、謎の解明を始めた。米国立公文書館を訪れるなど3年がかりの取材で、田川市長の訪米に当時大統領直轄だった広報・文化交流局の関与が判明。米国での天主堂再建の募金を報じる現地新聞に、「廃虚の撤去を前提」という記述を見つけもした。「被爆の痕跡を消そうとする流れを感じます」

 だが、当事者の多くは鬼籍に入り、保存を模索した教会の神父は病気で取材はかなわなかった。「今からでも遅くはない。被爆都市から声を上げ続ける」と真相解明に決意を新たにする。【錦織祐一】

 【略歴】高瀬毅(たかせ・つよし)さん 明治大卒。ジャーナリスト。ニッポン放送記者時代の82年、民放連賞最優秀賞に。長崎市出身で東京都小平市在住。54歳。

毎日新聞 200988日 003


Obama unlikely to visit Hiroshima, Nagasaki: Foreign Ministry official

U.S. President Barack Obama is unlikely to visit the atomic-bombed cities of Hiroshima and Nagasaki when he comes to Japan in mid-November, a high-ranking Foreign Ministry official said.

"That's what the president will decide. But I wonder whether it'd be appropriate for the leaders of both countries to exchange visits and offer apologies," said the official, who spoke on condition of anonymity. "We shouldn't raise our expectations too high."

The official apparently fears that a visit by Obama to the atomic-bombed cities could stir controversy in the United States, rekindling arguments over the two countries' interpretations of history, and develop into a diplomatic problem.

Moreover, ministry sources pointed out that Obama's planned visit to Japan -- his first as president -- will be too short for him to visit Hiroshima and Nagasaki.

(Mainichi Japan) August 8, 2009


米大統領:「被爆地訪問は困難」外務省首脳

 外務省首脳は7日、11月中旬に初来日するオバマ米大統領に対し、被爆地・広島、長崎を訪問するよう被爆者らが求めていることについて、「最終的には大統領が決めることだ」としながらも、「両国の首脳が互いに訪問し謝罪するようなことはいかがなものか。あまり期待感を高めない方がいい」と述べ、訪問は困難との認識を示した。

 被爆地訪問が米国内で議論を呼び、原爆投下などを巡る歴史認識の違いが浮き彫りになれば外交問題に発展すると懸念したようだ。大統領の日本滞在が短期間となる見通しであることも影響したとみられる。【中澤雄大】


毎日新聞 200987日 2212


平和市長会議:「原爆の日」前に長崎で開幕

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原爆投下中心地碑に向かって献花する各都市の代表ら=長崎市で2009年8月7日午後2時20分、徳野仁子撮影

 9日に64回目の「原爆の日」を迎える長崎市で7日、核兵器廃絶を目指す国際NGO「平和市長会議」(会長、秋葉忠利・広島市長)の総会が開幕した。参加市長らは7日午前から続々と長崎に到着。会議役員を務める市長ら約80人は市内の原爆中心碑に献花、犠牲者への慰霊の思いを胸に核廃絶を改めて誓った。

 総会は10日までの会期中、2020年までに核兵器を廃絶する道筋を同会議が示した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の実現などに向け協議を進める。【阿部弘賢】

毎日新聞 200987日 2125分(最終更新 87日 2155分)


旧浦上天主堂:撤去作業の男性名乗り 写真展公開で「あれは私」 /長崎

 原爆で破壊された旧浦上天主堂の写真を「ナガサキピースミュージアム」(長崎市)での写真展「幻の世界遺産」(7月14日~8月2日)で公開したところ、旧天主堂の廃虚を撤去した工務店社員だった1級建築士、本田拳治さん(70)=佐世保市=が名乗り出た。

 写真展では、元毎日新聞写真記者の写真家、高原至さん(85)=長崎市=の作品が初めて公開された。

 本田さんは満州(現・中国東北部)出身で戦後に長崎市に引き揚げ、教会建築で知られる鉄川与助さん(1879~1976年)率いる「鉄川工務店」に入社。58年の天主堂の廃虚撤去作業に加わった。高原さんが撮影した写真の中には、ハンマーを振り上げるなどの作業をする本田さんの姿もある。

 7月31日に本田さんが写真展を訪れて判明。6日に、高原さんとともに新天主堂を訪れた本田さんは「初めての仕事が、天主堂の廃虚の撤去の作業で、新天主堂の建設も携わりました。廃虚が頑丈だったので、改めて原爆の破壊力を感じました」と語った。

 今回の写真展では他にも被写体となった人たちが「あれは私」と名乗りを上げており、高原さんは「こんなこともあるんですね」と驚いていた。【錦織祐一】

〔長崎版〕

毎日新聞 200987日 地方版


平和:64年ぶり 遺骨帰る/広島で被爆死 長崎の男性

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政夫さんの写真を手に孫(右)と思い出を語るキヨノさん

 広島原爆で被爆死した長崎県矢上村(現長崎市)出身の杉内政夫さん(当時30歳)の遺族が64年ぶりに判明し、遺骨が古里に帰ってきた。命日の6日、長崎市の自宅で法要が営まれ、遺族は「遺骨はないものと思っていた。親類全員で(政夫さんの)帰宅を祝いました」と涙を浮かべた。

 8人兄弟の三男だった政夫さんは旧日本軍に召集され、1945年8月6日に広島市内の兵器工場で被爆死した。

 終戦後、政夫さんの兄弟2人が広島市を訪れて遺品などを捜したが、何も見つからなかったという。ところが今年5月、長崎市役所に掲示された広島市の原爆供養塔納骨名簿を見た親類が「杉内」姓を発見。先月末に政夫さんの弟豊松さん(79)の妻キヨノさん(73)ら3人が広島市を訪れて遺骨を持ち帰った。

 政夫さんの遺骨は当初から氏名がわかっていたが、漢字表記が誤っていたことなどから、遺族の元には届かなかったという。

 自宅と寺で営まれた法要には親類約20人が集まり、政夫さんの冥福を祈り、64年ぶりの「帰宅」を祝った。自身も長崎で被爆した豊松さんは、うれし涙を流したという。

 これまで遺族は、政夫さんが亡くなったとみられる場所から持ち帰った土を骨の代わりに骨つぼに入れ、毎月供養していた。遺骨は約15年前に政夫さんの名前を刻んだ墓に納骨された。

 政夫さんのおいに当たる孝幸さん(50)は「当時としては大男で近くの浜から巨大な岩を運んできたり、とにかく力持ちだったと、家では自慢のおじでした」。キヨノさんは「自分が生きてるうちに帰ってくるとは思わなかった。本家に遺骨が帰ってきてほっとしました」と喜んだ。

 広島市の平和記念公園の原爆供養塔(55年建立)には、現在も引き取り手のない約7万人の遺骨が安置されている。同市は85年から名簿を全国の自治体に送付して遺族を捜しているが、昨年分の名簿で判明したのは杉内さんだけだった。【阿部弘賢】

200987


広島原爆の日:灯籠流し 揺れる川面に8000個

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原爆ドームが川面に映る元安川をゆっくりとただよう灯籠。原爆投下から64年、静かな時間が流れた=広島市中区で2009年8月6日午後7時20分、貝塚太一撮影

 「原爆の日」の6日夜、広島市中区の原爆ドーム前を流れる元安川では「灯籠(とうろう)流し」があり、約8000個の明かりが揺れる水面に向かって遺族らが手を合わせた。

 広島市西区の長井幸恵さん(79)と杉村美千子さん(74)姉妹は、学徒動員で被爆したいとこ、前(まえ)元司さん(当時15歳)のため、毎年のように灯籠を流している。真っ黒に顔を焼かれた前さんは、大八車に乗せられて家に戻り、食べたがった桃を口にして亡くなったという。「来年は来られんかもしれん。けど、生きとるうちは忘れちゃいけん」と姉妹は涙ぐんだ。【矢追健介】

毎日新聞 200986日 2321分(最終更新 87日 016分)


広島原爆の日:原水禁、原水協系の大会が閉幕

 広島市で開かれていた原水禁系の被爆64周年原水爆禁止世界大会広島大会は6日、非核三原則の堅持と法制化、東北アジア非核地帯の確立に向けた取り組みを強化するとのヒロシマ・アピールを採択し、3日間の日程を終えた。脱原発社会の実現を目指す特別決議も採択した。

 5日から同市で開かれていた原水協系の原水爆禁止2009年世界大会・広島も6日、「原爆症認定集団訴訟の早期全面解決と、認定制度の抜本的再改定を強く要求する」との広島決議を採択し、閉幕した。【伝田賢史】

毎日新聞 200986日 1929


広島原爆の日:「長崎の鐘」鳴る 核廃絶の誓い新た

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長崎の鐘を打ち鳴らす市民や観光客ら=長崎市松山町の平和公園で2009年8月6日午前11時2分、蒲原明佳撮影

 長崎市松山町の平和公園にある「長崎の鐘」を鳴らし、平和への思い、核廃絶の誓いを新たにしてもらうイベント「平和を告げる長崎の鐘を鳴奏会(ならそうかい)」が「広島原爆の日」の6日、始まった。9日の「長崎原爆の日」まで続けられる。

 昨年に続き、今年で2回目。64年前に長崎原爆が投下された時刻と同じ午前11時2分に最初の鐘が鳴らされた。観光客、市民らが次々と鐘を鳴らした。今年は長崎市内の教会や寺、神社にも同時刻に鐘や太鼓を鳴らすよう呼びかけたという。

 「長崎の鐘」は、魚雷や戦車などを生産する軍需工場で働いていたため、長崎原爆で亡くなった女学生ら犠牲者を悼み、三十三回忌にあたる77年に建てられた。

 鐘は7、8日は午前11時2分~11時32分、9日は午後0時2分~0時32分に鳴らされる。【蒲原明佳】

毎日新聞 200986日 1354分(最終更新 86日 1505分)


広島原爆の日:「Yes,we can」平和宣言呼びかけ

200986 944分 更新:86 1941

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平和宣言とともに一斉に放たれ飛び立つハト=広島市中区の平和記念公園で2009年8月6日午前8時23分、小松雄介撮影

 被爆地・ヒロシマは6日、64回目の「原爆の日」を迎えた。秋葉忠利・広島市長は平和宣言で、原爆投下国の「道義的責任」として核廃絶を目指すと宣言したオバマ米大統領への支持を表明し、「Together,We can abolish nuclear weapons. Yes,we can(力を合わせれば核兵器は廃絶できます。絶対にできます)」と世界に英語で呼びかけた。平和宣言で英語を使ったのは初めて。麻生太郎首相は同日、原爆症認定集団訴訟の解決策を発表した。

 広島市中区の平和記念公園で午前8時から催された平和記念式典には、核保有国のロシアを含む過去最多の59カ国の駐日大使、総領事らが参列した。

 秋葉市長は自らが会長を務め、核廃絶などを掲げる「平和市長会議」への世界の加盟都市数が3000を超えたことなどを踏まえ、核兵器廃絶は世界の大多数の市民や国々の声だと強調。多数派の自らを「オバマジョリティー」と呼び、2020年までの核兵器全廃を目指そうと改めて訴えた。一方で、今年5月に北朝鮮が再び核実験を強行するなど核拡散への懸念が強まっており、来年開かれる核拡散防止条約(NPT)再検討会議への取り組み強化も誓った。

 被爆者の援護策については、約6年続いた原爆症認定集団訴訟で被爆者側が19連勝した司法判断を例示。「『黒い雨降雨地域』や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した援護策の充実」を求めた。

 式典で、秋葉市長と遺族代表2人が、この1年間に死亡、または死亡が確認された広島の被爆者5635人の名簿2冊を原爆慰霊碑下の奉安箱に納めた。原爆死没者名簿は計95冊、死没者数は計26万3945人になった。

 麻生首相、田上富久・長崎市長らが献花。原爆投下時刻の午前8時15分、参列者は1分間の黙とうをささげた。こども代表として小学6年の矢埜哲也さん(12)と遠山有希さん(11)が平和への誓いを読み上げた。【井上梢】


広島原爆の日:広島平和宣言(全文)

200986 836分 更新:86 1017

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平和宣言をする秋葉忠利・広島市長=広島市中区の平和記念公園で2009年8月6日午前8時17分、大西岳彦撮影

 人類絶滅兵器・原子爆弾が広島市民の上に投下されてから64年、どんな言葉を使っても言い尽くせない被爆者の苦しみは今でも続いています。64年前の放射線が未(いま)だに身体を蝕(むしば)み、64年前の記憶が昨日のことのように蘇(よみがえ)り続けるからです。

 幸いなことに、被爆体験の重みは法的にも支えられています。原爆の人体への影響が未だに解明されていない事実を謙虚に受け止めた勇気ある司法判断がその好例です。日本国政府は、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した援護策を充実すると共に、今こそ省庁の壁を取り払い、「こんな思いを他の誰にもさせてはならぬ」という被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきです。

 今年4月には米国のオバマ大統領がプラハで、「核兵器を使った唯一の国として」「核兵器のない世界」実現のために努力する「道義的責任」があることを明言しました。核兵器の廃絶は、被爆者のみならず世界の大多数の市民並びに国々の声であり、その声にオバマ大統領が耳を傾けたことは、「廃絶されることにしか意味のない核兵器」の位置付けを確固たるものにしました。

 それに応えて私たちには、オバマ大統領を支持し、核兵器廃絶のために活動する責任があります。この点を強調するため、世界の多数派である私たち自身を「オバマジョリティー」と呼び、力を合わせて2020年までに核兵器の廃絶を実現しようと世界に呼び掛けます。その思いは、世界的評価が益々(ますます)高まる日本国憲法に凝縮されています。

 全世界からの加盟都市が3000を超えた平和市長会議では、「2020ビジョン」を具体化した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を、来年のNPT再検討会議で採択して貰(もら)うため全力疾走しています。採択後の筋書きは、核実験を強行した北朝鮮等、全(すべ)ての国における核兵器取得・配備の即時停止、核保有国・疑惑国等の首脳の被爆地訪問、国連軍縮特別総会の早期開催、2015年までの核兵器禁止条約締結を目指す交渉開始、そして、2020年までの全ての核兵器廃絶を想定しています。明日から長崎市で開かれる平和市長会議の総会で、さらに詳細な計画を策定します。

 2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからですし、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果たしたことにはならないからです。

 核兵器廃絶を視野に入れ積極的な活動を始めたグローバル・ゼロや核不拡散・核軍縮に関する国際委員会等、世界的影響力を持つ人々にも、2020年を目指す輪に加わって頂きたいと願っています。

 対人地雷の禁止、グラミン銀行による貧困からの解放、温暖化の防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、正に発芽しつつあります。その芽を伸ばし、さらに大きな問題を解決するためには、国連の中にこれら市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要があります。例えば、これまで戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、そして、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案です。

 被爆64周年の平和記念式典に当たり、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の多数派の市民そして国々と共に、核兵器のない世界実現のため渾身(こんしん)の力を振り絞ることをここに誓います。

 最後に、英語で世界に呼び掛けます。

 We have the power.We have the responsibility.And we are the Obamajority. 
 Together,we can abolish nuclear weapons.Yes,we can.

2009年(平成21年)8月6日 

広島市長 秋葉忠利

 (注)英語部分の訳は次のとおりです。
 私たちには力があります。私たちには責任があります。そして、私たちはオバマジョリティーです。力を合わせれば核兵器は廃絶できます。絶対にできます。


被爆体験:FC岐阜ゼネラルマネジャー・今西和男さん、自分の体験語る決意

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被爆体験を語る決意について話す今西和男さん=岐阜市で、石山絵歩撮影

 ◇「原爆はこの世の地獄」


 サッカーの日本リーグで活躍し、94年にはサンフレッチェ広島総監督としてJリーグで優勝した今西和男さん(68)は4歳の夏、爆心地から約2キロ離れた広島市の自宅で被爆した。左半身にはケロイドが残る。現在はJ2・FC岐阜ゼネラルマネジャーの今西さんは、7月に岐阜市であった被爆者の集まりに初めて参加、高齢化を実感した。被爆64年の8月6日を前に「自分が体験を語る時が来た」と語り部の役目を担う決心をした。

 あの朝、自宅2階で椅子に座っていた。向かいに住む女の子と窓越しに口げんかをしていたら、空が光った。その瞬間、家は崩れ落ち、気が付くとがれきの中だった。母親に助け出され、近くの山の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。女の子がどうなったかは分からない。

 翌日、郊外の親類宅に向かった。道には、逃げまどう人、血を流す人、「水をくれ」と叫ぶ声。自分の左半身からも血が流れていた。練兵場からは皮膚や髪が焼ける「忘れられない異様なにおい」。数日後、左腕と左脚のやけどにウジがわいた。親類宅の近くの学校で保健の先生が赤チンを塗り、ピンセットでウジを取ってくれた。「悪いことせんから我慢してな」。その言葉と痛みを覚えている。

 「原爆はこの世の地獄」。あの光景を見て困った人を助けるのは当たり前と思うようになった。だが人に話しかけるのは不得手。人前で被爆体験を語ることもなかった。左半身のケロイドが年を重ねるごとに突っ張る。「原爆がなければもっと積極的で、違う人生もあったかもしれない」

 生徒と教師676人が被爆死した母校の広島市立舟入高校の同窓会長を務め、約25年前から毎年慰霊祭に足を運ぶ。「(犠牲者に)今年はプレゼントができた」。オバマ米大統領が核兵器廃絶の決意を語った4月のプラハ演説のことだ。「核をつくった国が廃絶を訴えた。意味は大きい」

 7月19日、長崎原爆の被爆者で岐阜市在住の知人に誘われ「岐阜県原爆被害者の会」の集まりに出席した。会員約300人のうち約7割が70歳以上。会場も年配者が目立った。献花した今西さんは「亡くなった人を弔うだけでなく、平和の意味を後世に伝えなければ。被爆地に限らず日本中で、世界中で」と強く感じた。

 今後はマイクを持つ機会を積極的にとらえ、被爆体験を語ろうと思っている。そして、平和の大切さを伝えていくつもりだ。【石山絵歩】

毎日新聞 200985日 中部朝刊


広島原爆:オバマ大統領母校の2生徒、被爆者の話に感銘

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大林芳典さんの証言を聞くケイラ・ムラタさん(中央)とケビン・チャンさん(左)=広島市中区で2009年8月3日、小松雄介撮影

 オバマ米大統領の母校、ハワイ・ホノルルのプナホウ学園の高校生2人が3日、広島市中区の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で被爆者の証言を聞いた。2人は、同校で日本語を教える被爆2世のピーターソン(旧姓・中井)ひろみさん(60)が設けた平和奨学金で原爆の日を挟んだ9日間、広島でホームステイしている。

 この日は、16歳の時に爆心地から約2.3キロ地点で被爆した大林芳典さん(80)=南区=の証言を聞いた。「皮がずるむけになった人が歩いて来て、びっくりした。赤黒く腫れ上がったり、まるでお化けのような格好だった」と話す様子を、ビデオで撮影しながら、聴き入っていた。2人は、帰国後にこのビデオなどを使って報告を行う予定という。

 親類が太平洋戦争で米軍に従軍したという日系4世のケイラ・ムラタさん(16)は「あれほどの悲惨な光景を見ながら、我々と思いを分かち合おうとする姿勢に感銘を受けた」と語った。韓国生まれで7歳からハワイに住んでいるというケビン・チャンさん(17)は「地球規模でどんな行動ができるかを考えて広島に来たいと思った。じかに聞いた証言は、衝撃的だった」と話した。【井上梢】

毎日新聞 200984日 1019分(最終更新 84日 1318分)


長崎原爆:いのちの水、母校へ 140人が被爆死した鎮西学院高生に活水中・高から

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手おけで活水の水を受け取る鎮西学院高の生徒(左側)=長崎市の活水中・高で2009年8月4日午前8時31分、阿部弘賢撮影

 長崎県諫早市の鎮西学院高校の生徒やOBらが4日、長崎市の活水中学・高校を訪れ、校内の井戸からくんだ水を受けとった。原爆投下時、鎮西学院高(当時・鎮西学院中)は今の活水中高の場所にあり、生徒や教員約140人が被爆死した。水は9日の長崎原爆の日、鎮西学院高で除幕される慰霊碑にかけられる。

 初の引き渡し式には、原爆で死亡した生徒の同窓生3人も参加。チャペルで鎮西学院高の生徒3人が、活水高の生徒から手おけで水を受け取った。

 当時、鎮西学院中3年で、爆心地から2・5キロの学徒動員先で被爆した西嗣也さん(78)=長崎市=は「しゃく熱の中で学友たちは『水を水を』と叫んで死んでいった。学校発祥の地からささげる水は彼らへの最高の贈り物」と感謝した。

 両校校長は「これをきっかけに両校が交流し平和の精神を継承していきたい」と話し、今後は毎年、水の引き渡し式を続ける方針という。【阿部弘賢】

200984


長崎原爆:ヒバクシャの声を世界へ 長崎の会が証言集英訳本、オバマ大統領に送る

 長崎原爆の被爆者証言を集め、出版を続けている「長崎の証言の会」の会員らが3日、06年に刊行した被爆体験の証言集総集編「証言・長崎が消えた」の英訳版を出版したと発表した。英訳版は近日中にオバマ米大統領にも送付するという。

 英題は「NAGASAKI-Voice of the ABOMB Survivors」。

 証言集は▽被爆当時▽被爆後の生活▽外国人捕虜▽韓国人被爆者▽放射能の影響▽渡米した被爆者--の6分野で30人の証言を掲載。広島で被爆し、白血病のため亡くなった佐々木禎子さん(当時12歳)のエピソードも紹介している。

 英訳には県内外の主婦や英語教師ら12人が参加。自身も被爆者で代表の広瀬方人さん(79)は「外国人向けの証言集は少ない。原爆投下は正しかったなどという間違った感想が多い中、原爆が悪魔の兵器だと理解してほしい」と語った。広瀬さんらは中国語版の出版も計画している。【阿部弘賢】

毎日新聞 200984日 西部朝刊


記者の目:被爆者の新たな取り組み学べ=下原知広

 「核兵器と人類は共存できない。体や骨を刻むほどの苦しみは私たちで終わりにしてほしい」。約1万回もの語り部活動で被爆体験と核廃絶を訴え続ける長崎原爆遺族会顧問、下平作江(しもひらさくえ)さん(74)が、体調を崩し7月中旬から活動を中断している。幸い手術は成功し、復帰に意欲満々だ。被爆者の高齢化は進む。原爆取材をしながら「こうした思いをどう次代につなげばいいのか」と自問自答してきた。9日に64回目の「原爆の日」を迎える長崎市では、被爆体験継承に危機感を持つ被爆者が新たな取り組みを始めている。若い世代は、これらをヒントに継承に取り組むべきだと思う。

 私は08年末から連載企画「ヒバクシャ」(大阪、西部本社発行の朝刊に掲載)で、下平さんの取材を続けている。

 下平さんは10歳の時、爆心地から約800メートルの防空壕(ごう)で2歳下の妹らと被爆した。翌日、壕を出ると外は地獄のような光景だった。自宅にいた家族は被爆死し、助かった妹もその後に病苦で自殺。30代で子宮、卵巣を切除するなど過酷な体験をしてきた。40歳ごろから語り部活動を始め、原爆症認定長崎訴訟の原告として被爆者全体の支援活動にも取り組む。その体験はもちろん、核兵器廃絶の取り組みを生活の中心に据える生きざまに、強い衝撃を受けた。

 7月末、長崎市内の病院の無菌室。下平さんは痛めた股(こ)関節の骨の手術を終え、ベッドで静かに眠っていた。回復すれば、修学旅行生たちに再び被爆体験を語るという。全国の被爆者は3月末で約23万5500人、平均年齢75.92歳(厚生労働省調べ)と高齢化が進む。下平さんのような語り部は少なくなり、被爆体験を持たない人が核兵器廃絶に取り組まなければならない時期が目前に迫る。下平さんの姿に、被爆体験継承への思いをますます強くした。

 新たな手法で継承に取り組む一人が、長崎平和推進協会員で元会社員、出口(いでぐち)輝夫さん(73)だ。爆心地から1.4キロの自宅で被爆。背中や頭に大けがをしたために気絶し、当時の光景をあまり記憶していない。「下平さんのような体験はなく、話せるのは周囲の状況だけ」と言う。そこで、医学や物理学などを約8年間独学、原爆について学んだことを本にまとめた。講話を頼まれると、こうして得た知識を体験談に交えている。

 08年5月からは「平和塾」を月1回開催。被爆遺構などをガイドする被爆者、市民と、原子力や核兵器について議論する。広島原爆(リトルボーイ)と長崎原爆(ファットマン)の名前の由来などを問うなどし、理解を深めてもらう。こうした取り組みから「原爆を体験していない若い人は『核廃絶なんかできない』と考えがちだが、できることがあるはずだ」と語る。

 同協会平和案内人、田中安次郎さん(67)は、3歳の時に爆心地から3・4キロで被爆した。「カメラのストロボを何万個も集めたような青白い光」以外の記憶はほとんどない。そこで「広島で被爆し、原爆症(白血病)のため12歳で亡くなった佐々木禎子(さだこ)さんのように、子供にも身近に感じられる話をして平和への思いを伝えることができないか」と考えた。

 着目したのは長崎市立城山(しろやま)小の「嘉代子桜(かよこざくら)」だった。学校で被爆死した林嘉代子さん(当時15歳)の母親が、娘らの死を悼んで同小に植樹した桜への思いを全国に広めることを計画。募金などで集めたお金で桜の苗木を買い、長崎市や広島市などへの植樹を2月から続けている。「原爆や戦争の悲惨さを訴えるための手段。体験がない分は写真集などで勉強し、語り部の話を聞いて追体験し、その人になりきって話す。我々は被爆の悲惨さを記憶していないが、被爆を伝える責任がある」

 被爆や戦争の歴史を再点検して紡ぎ出そうとする2人の取り組みは、自ら考え、行動し、平和を探求しようとする新たな被爆体験の継承手法を私たちに投げかけている。

 その思いは少しずつ各地で種を芽生えさせている。長崎で01年から始まった「高校生1万人署名活動」もその一つだ。高校生たちが核兵器廃絶の署名を集め、それを国連欧州本部(スイス)などに毎年届けている。参加した高校生たちは約300人に及ぶ。田中さんの活動に共感し、山口県柳井市の中学校が寄付金を送ってもきた。被爆者たちの64年間の平和への思いを途切れさせるわけにはいかない。

 米国では「核兵器のない世界」を目指すオバマ大統領が登場し、ロシアと核削減に関する条約に合意するなど核兵器を巡る状況は動きつつある。「私たちが被爆体験を語るのは、二度と核兵器を使ってほしくないからです」。唯一の被爆国に住む我々は、出口さんが繰り返し語り続けてきた言葉を、改めてかみしめなければならないと思う。

毎日新聞 200984日 013


被爆体験:証言集の英訳版出版 米大統領に送付へ

 長崎原爆の被爆者証言を集め、出版を続けている「長崎の証言の会」の会員らが3日、06年に刊行した被爆体験の証言集総集編「証言・長崎が消えた」の英訳版を出版したと発表した。英訳版は近日中にオバマ米大統領にも送付するという。

 英題は「NAGASAKI-Voice of the A-BOMB Survivors」。

 証言集は▽被爆当時▽被爆後の生活▽外国人捕虜▽韓国人被爆者▽放射能の影響--などの6分野で30人の証言を掲載。広島で被爆し、白血病のため亡くなった佐々木禎子さん(当時12歳)のエピソードも紹介している。

毎日新聞 200983日 1952


ナガサキ再生:毎日カメラマンが見た被爆地/2 悲惨さ訴え続ける聖像 /長崎

 浦上天主堂(長崎市本尾町)の前庭には3体の聖像が安置されている。いずれも旧天主堂時代からあったもので、向かって左端の聖像の頭部はない。

 壮大なロマネスク様式で「東洋一」とたたえられた旧天主堂は、長崎原爆によって無惨に破壊された。長崎平和推進協会写真資料調査部会長の深堀好敏さん(80)は「天主堂は青白い炎を上げて翌日まで燃え続けていました」と語った。浦上地区では信徒約1万2000人のうち約8500人が犠牲となったという。

 保存・復元論争を経て、浦上天主堂は59年に再建された。浦上天主堂によると、聖像のなくなった頭部の行方は今もわかっていない。爆風に破壊され、焼けただれた聖像は、原爆の悲惨さを静かに訴え続けている。

〔長崎版〕

毎日新聞 200982日 地方版


平和:原爆モチーフに絵本/イラストレーター・黒田さん「戦争のない世界を」

 広島、長崎の原爆の日を前に、イラストレーターの黒田征太郎さん(70)=北九州市門司区=らが核兵器廃絶プロセス「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の解説絵本を作った。その名も「ヒロシマ・ナガサキ議定書を読む絵本」(A5判60ページ)。きのこ雲をモチーフにした黒田さんのイラストやコラージュ、写真で構成、全ページに英訳を添えて、国も世代も超えて、あらゆる人が親しめるように工夫されている。【長谷川容子】

 発行したのは核廃絶のうねりを広島、長崎から起こそうと行動している市民団体「YES!キャンペーン」実行委(広島市)。議定書の各条項の一部とその意訳を掲載している。かみくだいた言葉使いが特徴で、例えば「核分裂物質」は「核のタネ」。

 黒田さんは90年代半ば、野坂昭如さんの著書「戦争童話集」に触発され、全12話を絵本や映像にした。04年からは建築家の安藤忠雄さんやトランペッターの近藤等則さんらとそれぞれの表現方法で広島・長崎の被爆を見つめ直す「ピカドンプロジェクト」を始め、その縁で今回のキャンペーンにも協力。

 今春、ニューヨークから北九州市へ移住したのを機に、知り合ったカメラマンたちを巻き込んで、門司や小倉でキノコ雲をモチーフにしたピカドンの絵を描き、撮影を敢行し、絵本を完成させた。「戦争のない世界への道筋を作りたい。そのためにも継続して活動していくことが大切。絵本も続編を作ります」と黒田さん。

 初版は5000部を発行。1冊500円。安藤さんがカバー表紙のイラスト、近藤さんがエッセーを寄せている。問い合わせは事務局(082・247・6727)。

 ヒロシマ・ナガサキ議定書 世界約3000都市が加盟する「平和市長会議」が昨年4月、核不拡散条約を補完する協定として発表した。核兵器のない世界を2020年までに実現するため▽核保有国による核兵器取得・配備の即時停止▽2015年までに核兵器禁止条約を締結する--など核廃絶への具体的な道筋を示している。

2009730


平和:永井千本桜 次世代に/長崎のNPO・2世200本、学校などに

 長崎原爆で被爆しながら救護活動に尽力した故・永井隆博士が生前、長崎・浦上地区の教会や学校、病院などに寄贈した桜を、再生させる取り組みが今秋にもスタートする。「浦上の原子野を花咲く丘に」と願って植えられた約1200本の桜は「永井千本桜」と呼ばれたが、現在は三十数本に激減。関係者は「桜と共に永井博士の平和の精神を次世代に伝えたい」と期待を込めている。【阿部弘賢】

 永井博士は48年冬ごろから、原爆で荒廃した浦上地区に桜の花を咲かせ、傷ついた被爆者らの心を和ませようと、自著の収益などで苗木を購入。カトリック信徒や医大生らの手で浦上天主堂や学校などに植樹された。

 しかし戦後64年を経て、宅地・道路の造成、台風などの自然災害、さらに老化により桜は年々減少。永井博士の顕彰活動を続けるNPO「長崎如己(にょこ)の会」(朝長万左男理事長)などによると、現存は、信愛幼稚園の8本、長崎市立城山小の7本、浦上天主堂の3本など三十数本だけという。

 同会は、永井博士の生誕100年を昨年迎えたことから、活動拡大を計画。その一つとして、千本桜再生事業の着手を決めた。現存する桜を樹木医に診断してもらい補修するほか、今秋以降、200本の千本桜2世を接ぎ木で育て、早ければ来秋にも付近の学校などに植樹する。事業予算は約50万円。植樹は数年間継続したいとしている。

 爆死した永井博士の妻緑さんが戦時中に教員を務め、次女の故・筒井茅乃(かやの)さんも学んだ、長崎市文教町の純心中・女子高(佐藤洋子校長)では、最も多い12本の千本桜が残り、今も毎年花を咲かせている。そんな桜をさまざまな場所に植えていくのが会の夢だ。

 朝長理事長は「永井博士が平和の願いや精神を託した桜を途絶えさせてはいけない。2世桜によってその思いを次世代につないでいきたい」と話している。

2009723


受け継ぐ09夏:永井千本桜、次世代に 長崎のNPO、2世200本を植樹へ

 ◇「平和の精神と共に」--学校などに


 長崎原爆で被爆しながら救護活動に尽力した故・永井隆博士が生前、長崎・浦上地区の教会や学校、病院などに寄贈した桜を、再生させる取り組みが今秋にもスタートする。「浦上の原子野を花咲く丘に」と願って植えられた約1200本の桜は「永井千本桜」と呼ばれたが、現在は三十数本に激減。関係者は「桜と共に永井博士の平和の精神を次世代に伝えたい」と期待を込めている。【阿部弘賢】

 永井博士は48年冬ごろから、原爆で荒廃した浦上地区に桜の花を咲かせ、傷ついた被爆者らの心を和ませようと、自著の収益などで苗木を購入。カトリック信徒や医大生らの手で浦上天主堂や学校などに植樹された。

 しかし戦後64年を経て、宅地・道路の造成、台風などの自然災害、さらに老化により桜は年々減少。永井博士の顕彰活動を続けるNPO「長崎如己(にょこ)の会」(朝長万左男理事長)などによると、現存は、信愛幼稚園の8本、長崎市立城山小の7本、浦上天主堂の3本など三十数本だけという。

 同会は、永井博士の生誕100年を昨年迎えたことから、活動拡大を計画。その一つとして、千本桜再生事業の着手を決めた。現存する桜を樹木医に診断してもらい補修するほか、今秋以降、200本の千本桜2世を接ぎ木で育て、早ければ来秋にも付近の学校などに植樹する。事業予算は約50万円。植樹は数年間継続したいとしている。

 爆死した永井博士の妻緑さんが戦時中に教員を務め、次女の故・筒井茅乃(かやの)さんも学んだ、長崎市文教町の純心中・女子高(佐藤洋子校長)では、最も多い12本の千本桜が残り、今も毎年花を咲かせている。そんな桜をさまざまな場所に植えていくのが会の夢だ。

 朝長理事長は「永井博士が平和の願いや精神を託した桜を途絶えさせてはいけない。2世桜によってその思いを次世代につないでいきたい」と話している。

毎日新聞 2009723日 西部朝刊


長崎原爆:その花嫁は私 半世紀ぶり再会 旧浦上天主堂の写真公開で身元判明 長崎

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当時の思い出を語り合う(左から)片岡さん、高原さん、池永さん=長崎市松が枝町で15日午前10時36分、阿部弘賢撮影

 長崎市在住の写真家、高原至さん(85)が長崎原爆で破壊された旧浦上天主堂での結婚式の写真などを同市内での写真展で初公開したところ、写真に写った花嫁姿の女性らの身元が判明した。15日、写真の花嫁らと半世紀ぶりに再会した高原さんは「不可能と思っていたので、会えたのはまさにドラマ。写真家をやっていて良かった」と喜んだ。

 長崎市のナガサキピースミュージアムでの写真展「幻の世界遺産-被爆遺構・旧浦上天主堂の記録」(8月2日まで)は、毎日新聞社の写真記者を務めた高原さんが撮影した旧浦上天主堂の解体工事の様子などの写真を展示。結婚式の写真は、1958年4月19日に旧浦上天主堂横にあった仮聖堂での式直前に撮影されたという。花嫁は長崎市の片岡カツ子さん(76)で、花嫁の手を引く女性は、仲人を務めた池永文子さん(87)=同市。池永さんの親類が14日に同館を訪れ、「花嫁は片岡さんでは」と名乗り出た。

 片岡さんと池永さんは一緒に同館を訪れ、51年前の自分の写真を見ながら高原さんらと当時を回想。片岡さんは「写真を見て、いいことも悪いこともいろいろあった、この50年がすーっと頭をよぎった。時代は早かねえ」とつぶやいた。

 高原さんは、片岡さんを見た時の印象を「復興が進む浦上に、まるでマリア様が来たかのようにぱっと周囲が明るくなって、それで夢中でシャッターを切り続けた」と話し、2人を笑わせた。

 片岡さんの夫は被爆者で、約30年前にがんで死亡。一昨年には長男も亡くした。片岡さんは「夫が生きていれば、写真に喜んだでしょう。でも、今日はいい報告ができます」。池永さんは「初めての仲人だったので当時をよく覚えてはいないけど、こんな形で写真が見つかるなんて」と懐かしんでいた。【阿部弘賢】

2009716


長崎原爆:半世紀ぶり再会、その花嫁は私 旧浦上天主堂の写真、公開で身元判明

 長崎市在住の写真家、高原至さん(85)が長崎原爆で破壊された旧浦上天主堂での結婚式の写真などを同市内での写真展で初公開したところ、写真に写った花嫁姿の女性らの身元が判明した。15日、写真の花嫁らと半世紀ぶりに再会した高原さんは「不可能と思っていたので、会えたのはまさにドラマ。写真家をやっていて良かった」と喜んだ。【阿部弘賢】

 ◇高原さんも感激


 長崎市のナガサキピースミュージアムでの写真展「幻の世界遺産-被爆遺構・旧浦上天主堂の記録」(8月2日まで)は、毎日新聞社の写真記者を務めた高原さんが撮影した旧浦上天主堂の解体工事の様子などの写真を展示。結婚式の写真は、1958年4月19日に旧浦上天主堂横にあった仮聖堂での式直前に撮影されたという。花嫁は長崎市の片岡カツ子さん(76)で、花嫁の手を引く女性は、仲人を務めた池永文子さん(87)=同市。池永さんの親類が14日に同館を訪れ、「花嫁は片岡さんでは」と名乗り出た。

 片岡さんと池永さんは一緒に同館を訪れ、51年前の自分の写真を見ながら高原さんらと当時を回想。片岡さんは「写真を見て、いいことも悪いこともいろいろあった、この50年がすーっと頭をよぎった。時代は早かねえ」とつぶやいた。

 高原さんは、片岡さんを見た時の印象を「復興が進む浦上に、まるでマリア様が来たかのようにぱっと周囲が明るくなって、それで夢中でシャッターを切り続けた」と話し、2人を笑わせた。

 片岡さんの夫は被爆者で、約30年前にがんで死亡。一昨年には長男も亡くした。片岡さんは「夫が生きていれば、写真に喜んだでしょう。でも、今日はいい報告ができます」。池永さんは「こんな形で写真が見つかるなんて」と懐かしんでいた。

毎日新聞 2009716日 西部朝刊


被爆体験:どう語り継ぐ? 長崎で市民ら交え、継承シンポを開催 /長崎

 被爆体験の継承について話し合うシンポジウムがこのほど、長崎市の原爆資料館であった。市民ら参加した約180人が、被爆者の高齢化が進む中、「誰が」「何を」「どうやって」継承すべきかなどについて、各分野で活躍するパネリストと共に意見交換した。

 沖縄戦の際に使用された壕について継承活動を行う沖縄大・非常勤講師の波平エリ子氏(51)は「大学生と実際の体験者が一緒になって行った継承活動には、(聞いている)若い人も両者からの刺激を受けていた」と報告。活水高で「長崎平和学」を教える長崎平和推進協会継承部会の山川剛氏(72)は「教育活動の基本は平和。原爆の悲惨さを学んだ上で、人間が絞り出した知恵という希望も教えるべき」と話した。

 会場からは「協会は隠れた被爆者を掘り起こしてほしい」「漫画やアニメなどの方法で伝えるのがいい」などの意見も出た。【阿部弘賢】

〔長崎版〕

毎日新聞 2009625日 地方版


被爆体験:「戦争に正義はない」絵本作家・森本さん、安佐南で語る /広島

 オーストラリア在住の被爆者で絵本作家の森本順子さん(77)が来日し、安佐南区の広島共立病院で22日、被爆体験を話した。医師や患者ら約40人が静かに聴き入った。

 森本さんは、原爆の怖さや戦争についてを「MY HIROSHIMA」という絵本にまとめて、88年に英語版でオーストラリアで発行した。その後、06年7月に日本語でも発行した。オーストラリアでは小学校の副教材として使われるなど、平和教育に根付いている。このたび、森本さんは脳腫瘍(のうしゅよう)の原爆症認定の申請のためにシドニーから訪れた。同病院で、検査入院中の時間を使って、証言をした。

 森本さんは爆心地から約1・7キロの自宅で学校を休んでいて、姉と一緒に被爆。四方八方から火の手が上がったことで、逃げ出す中「街からたくさんの避難者が壮絶な姿で、上半身が焼けただれ、服はボロボロの状態、髪の毛もボサボサで物も言わずに歩く姿を見た」という。火の手のない北に向かって歩く中、黒い雨に遭った。合流した父は大やけど、兄は背中にガラス片が刺さって痛がり「何が起こったか、自分がどうなるか分からない」状態だった。

 森本さんは「戦争に正義はない。一番下で苦しむのは庶民。後々に置きみやげをたくさん作る核兵器なんかを作ってしまう。それが必要ないということを分かってもらうため、今生きている人が伝承していくことが大事」と語った。【井上梢】

毎日新聞 2009623日 地方版


北朝鮮核実験:広島と長崎の被爆者たちに憤り

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北朝鮮の核実験を伝える記事のコピーを読む被爆者の沼田鈴子さん=広島市南区で2009年5月25日午後4時15分、大西岳彦撮影

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原爆投下前後の航空写真を指し示し「核兵器の悲惨さを知ってほしい」と訴える深堀好敏さん=長崎市平野町の長崎原爆資料館で2009年5月25日午後4時13分、錦織祐一撮影

 北朝鮮による25日の2度目の核実験に、世界中が怒りを向けた。オバマ米大統領が、核廃絶への道を歩み始めた直後の「希望」に対する背信行為だからだ。広島と長崎の被爆者たちも、「誰も止められないのか」などと憤る一方、「今こそあの時の体験を伝えなければ」と誓いを新たにした。

 被爆後に左足を失い、証言活動をしてきた沼田鈴子さん(85)は広島市南区の老人ホームの病床で核実験を知り、「どうしてかな。核の恐ろしさを知らないのかね。命を壊す物を使って、人類を助けることはできないのに」と顔をゆがめた。

 自ら北朝鮮へ渡り、人々に訴えたい。「今こそ、あの時の体験を伝えなければいけないという思いに目を向けてほしい」と。だが体調が悪く、それを果たせないことが悔しい。

 深くため息をついたのは、長崎平和推進協会写真資料調査部会長の深堀好敏さん(80)=長崎市。「戦争の悲惨さも核兵器の脅威も国民には一切知らせず、独裁者が政治をゆがめ、滅びへの道を進む。犠牲になるのは国民だ」と表情を曇らせた。

 韓国原爆被害者協会名誉会長の郭貴勲さん(84)も「国連安保理決議を屁(へ)とも思わない。どうしようもない。暗たんたる気持ちだ」。核は朝鮮半島の統一の障害になるとも憂えながら、「誰が何と言おうと、米国に届く核ミサイルを完成させるまで核開発をやめないだろう」と語った。

 広島で被爆した医師、丸屋博さん(84)=広島市安佐南区=は、北朝鮮在住の被爆者に対して、「置き去りにされてきた」との考えから、04年8月に人道支援の一環で平壌を訪れた。出会った女性被爆者らが診療施設の建設を求めたことなどを思い「日朝の国交正常化交渉が進めば支援は議題になるはずだが、また遠のいた」。さらに「日本も核廃絶に独自のイニシアチブを発揮できていない。これからどうなるのか」と、被爆地の切なる願いを裏切る核実験の報をむなしく受け止めるしかなかった。

 「この時期になぜ」と、在日韓国人2世のプロ野球評論家、張本勲さん(68)はうめいた。5歳の時に広島で被爆。オバマ米大統領の姿勢に共感しており、「世界中の被爆者、世界中のコリアンが私と同じように落胆している。どうしてなんだ」と怒った。

 核廃絶への機運の減速を懸念し、両被爆地で被爆した長崎市の山口彊さん(93)は「我々、日本の国民がオバマ大統領をしっかり支援しないと」と話す。そして、「最後は地球や人間が存続するかどうかという目で考えてほしい」と訴えた。

 ◇秋田、新潟両県が連絡室設置


 日本海沿岸の自治体も25日、対応を始めた。4月に北朝鮮が長距離弾道ミサイルを発射した際、地上配備型迎撃ミサイルが配備された秋田県。佐竹敬久知事は定例会見で「近い場所での核実験に強い憤りを感じる」と述べた。県は災害連絡室を設置。大気中の放射線の数値を確認する。

 新潟県も情報連絡室を設置。東京電力柏崎刈羽原発7号機が9日に運転を再開して以来、周辺で放射線を測定しているが、数値異常はないという。また、同原発周辺以外にも移動式の観測装置を5カ所に追加配置している。【百武信幸、小川直樹】

毎日新聞 2009525日 2137分(最終更新 526日 150分)


北朝鮮核実験:「絶対許されない」広島、長崎からも怒り

 北朝鮮の強硬姿勢に列島から抗議の声があがった。25日朝、北朝鮮が核実験に踏み切った。軍縮への動きや外交努力をないがしろにする「暴挙」に、拉致被害者の家族は驚き、反核団体の人々は怒りをあらわにした。

 地球平和監視時計がある広島市の原爆資料館では、最後の核実験からの日数が25日で959日目を記録していただけに、職員の間に無力感が広がった。国重俊彦副館長は「北朝鮮の最後の核実験から、約3年を迎えようとする中で大変残念なことだ。監視時計が要らなくなる平和な時代を迎えられたらいいと思っていた」と声を落とした。

 長崎原爆遺族会顧問の下平作江さん(74)は「核兵器は悪魔の兵器。一発で無差別に人を殺す。生き残っても放射線によるえたいの知れない病に苦しまなければならず、この苦しみは私たちで十分。忘れたくても忘れられない。思い出すだけで胸がどきどきする。絶対に核実験は許されない」と非難した。

 原水爆禁止日本協議会(原水協)の安井正和事務局次長は取材の電話に「本当ですか。想像していなかった」と驚きの声を上げた。「事前の情報は一切なかった。オバマ米大統領がプラハで核兵器廃絶に向けた演説をしたばかり。世界の流れに逆行するものだ」。同協議会は06年に北朝鮮が地下核実験を行った際に抗議の談話を出した。「今回もおそらく抗議することになると思う。許せない行為だ」と話した。

 07年に訪朝して北朝鮮の被爆者の実態を調査した川野浩一・原水爆禁止日本国民会議(原水禁)議長(69)=長崎県長与町=も「核実験は、米国を交渉の場に引きずり出そうという狙いなのだろうが、基本的に誤っている。オバマさんが核廃絶に向けて対話、協調しようという時代に、こんなやり方は通用しない。世界の孤児になる」と批判した。

 ◇拉致被害者家族ら驚き


 拉致被害者の家族らからは北朝鮮を強く非難する声があがった。

 田口八重子さん(行方不明時22歳)の兄で家族会代表の飯塚繁雄さん(70)は「このままではすべてが北朝鮮の思い通りだ」と指摘し、「米国もこれまで、北朝鮮が核実験を行えば相当の制裁を加えるしかないと言っていた。もし事実なら政府は米国にならい厳しい姿勢で臨んでもらいたい」と憤った。

 横田めぐみさん(行方不明時13歳)の母早紀江さん(73)は、毎日新聞の取材で核実験実施を知り「驚いた」と声を失った。「もはや被害者家族では、どうしようもない。米国や日本など、世界の国々がどのように反応するのか見守りたい」と話した。

毎日新聞 2009525日 1355

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