Message to Obama
オバマ大統領へのメッセージ


被爆の国から:
オバマ大統領へのメッセージ/1(その1) 「ノーモア核」

 ◇「ノーモア核」全世界が唱えてほしい


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原爆ドーム前にたたずむ新関顕さん=広島市中区で、西村剛撮影

 オバマ米大統領は4月のプラハ演説で表明した。「核兵器を使った唯一の核保有国として米国には行動する道義的責任がある」。核廃絶に向けた兆しが見え始めた。64年前の夏、原爆を投下された日本。悲しみを背負い生きた被爆者、あるいはその2、3世たちの思いをオバマ大統領に届けたい。被爆の国から、核なき世界への願いを込めて。

 ◇広島の「ケン」--親族の「ケン」は米閣僚

 広島に来て、市民との対話を持つよう熱望します。核軍縮の道は平たんではないが、少しずつでも前進してください。 新関顕

 星条旗が並ぶ米シカゴの会見場に、大統領就任直前のオバマ氏が小柄な日系人男性を伴って現れた。日本軍がハワイの真珠湾を攻撃してからちょうど67年となる昨年12月7日(現地時間)。オバマ氏は隣に立つ日系3世のエリック・ケン・シンセキ氏(66)を退役軍人省の長官に指名し、「迫られた改革を成し遂げてくれるだろう」と最大級の賛辞を贈った。

 エリック氏は99年、アジア系として初めて米陸軍トップの参謀総長に上り詰めた。今は閣僚の一人としてオバマ政権を支える。ハワイ出身だが、父方、母方ともルーツは広島にあり、その地に被爆者の親族がいることを知る人は少ない。

 エリック氏と高祖父(祖父の祖父)を同じくする「もう一人のケン」、新関顕(しんぜきけん)さん(76)の一家は1945年8月6日、核の惨禍に見舞われた。

 この7月下旬、広島平和記念公園。開業医の顕さんは原爆死没者慰霊碑に手を合わせた。5年ほど前、脳梗塞(こうそく)で倒れ、右半身と会話が不自由になったが、散歩がてら時々訪れる。「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。慰霊碑に刻まれた文を黙って指し示した顕さんには「これは全世界の人々が唱えるべき言葉」との思いがある。

 「唯一の核使用国」である米国の大統領は、過去一度も被爆地広島・長崎に足を踏み入れたことはない。今、オバマ大統領の訪問実現への期待が高まる。

 エリック氏もルーツの地広島を訪れたことがない。顕さんは声を絞り出し、米国のケンへの心情を語った。「米国の、退役軍人には、『原爆は必要だった』と、思う人が多いから、長官としては、広島に、来にくいんじゃないかと、思います。でも、来て、知ってほしい」【真野森作】

毎日新聞 200982日 東京朝刊


被爆の国から:
オバマ大統領へのメッセージ/1(その2止) 2人のケン

 ◇ヒロシマ、祈りと沈黙 惨禍、直視してほしい


 <1面からつづく>

 オバマ政権の退役軍人長官、エリック・ケン・シンセキ氏(66)と、被爆地で外科医院を営む新関顕(しんぜきけん)さん(76)。2人の一族は110年前、日米に分かれた。太平洋戦争は敵同士となった国に住む「2人のケン」の人生にも大きな影を落とした。

 東京・麻布台の外務省外交史料館にハワイ移民の名簿が大量に保管されている。1899(明治32)年にカウアイ島へ渡ったエリック氏の祖父、光蔵氏の記録もある。「広島市江波(えば)一二八番地」と記された当時の住所の近くに、今も顕さんは暮らす。

 64年前の光景は、記憶に強烈に焼き付いている。見知った人が原爆症で次々と倒れていく。闇の中、軍の射撃場跡地で一晩中燃えさかる火葬の炎と、まきを投げ入れる人たちの鬼のようなシルエット。「戦争だけは子供たちには経験させてはいけない」。8月6日が来るたび、思いを深める。

 当時は小学6年生。5月27日の海軍記念日に生まれ、江田島の海軍兵学校に進むのが夢だった。集団疎開先の山寺でドーンという地響きを感じた翌日の夕方、焼け焦げた衣服で訪ねてきた母に惨状を聞いた。

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 8月17日、焼け野原に立った。「がれきの山にぼうぜんとした」。家は爆風で一部壊れたが、死者はなかった。だが、爆心地近くの伯母の家は跡形もなくなっていた。伯母はザクロのように赤く焼けただれた腕で1歳4カ月の三女を抱いて逃げたが12日後、力尽きた。ただ一人生き残ったその子を顕さんの両親が引き取り、家族に加えた。

 ■  ■

 広島からハワイへ渡ったシンセキ家の人々は1941年12月7日(現地時間)、真珠湾(パールハーバー)へ向かう日本の戦闘機と立ち上る黒煙を目撃した。二つの祖国の戦争が始まり、暮らしは厳しさを増した。日系人には「敵性国人」のレッテルが張られ、日本語学校長など指導的な立場にあった数百人が「反逆の可能性がある」として戦時収容所に送られた。張り詰めた環境の中で翌年、エリック氏は生まれた。

 米国への忠誠を証明するため軍に志願した日系人の若者の列には、母方の叔父2人も連なった。エリック氏は今年6月の講演で「子供のときのヒーローは軍に加わっていた若い日系2世たちだった」と語っている。高校卒業後、陸軍士官学校に進学。ベトナム戦争での負傷を乗り越え、人種の壁を破る栄達を果たしてきた。4年前に来日した際の講演では「たくさん努力もしたし、たくさんの運もあった」と振り返った。

 退役軍人の医療や年金をつかさどる長官として請われて講演する機会も少なくない。パールハーバーがもたらした苦難については毎回のように語るが、ヒロシマを口にしたことはない。記者の取材依頼にも応じなかった。

 ■  ■

 米国各地に散ったシンセキ家は数年に1度、「リユニオン(再会の集い)」を開く。家紋が入ったそろいのシャツを身につけ、親族同士のきずなを確かめ合う場だ。顕さんは昨年、オレゴン州から広島を訪れた一族の一人に「ハワイで開く次回の集まりに出てほしい」と招かれた。「もう一人のケン」と初めて会う機会が訪れる。

 その時が来たら、こう伝えたい。

 「爆心地に立ち、その周りにも街があり多くの人が暮らす家庭があったことを、それが一瞬にして滅亡したことを、まぶたに思い浮かべてみてほしい」【真野森作】

毎日新聞 200982日 東京朝刊


Message to Obama: High hopes for a visit to Hiroshima

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Ken Shinzeki stands in front of the A-Bomb Dome in Hiroshima. (Mainichi)

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President-elect Barack Obama introduces retired General Eric K. Shinseki asa nominee for Veterans Affairs secretary during a news conference in Chicago, December 7, 2008. (Reuters)

A message to U.S. President Barack Obama:

"I eagerly encourage you to visit Hiroshima to have a dialogue with the citizens here. Although the path to nuclear disarmament may not be straight, I hope you will make progress step by step."

-- Ken Shinzeki

"As the only nuclear power to have used a nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act" toward nuclear disarmament, Barack Obama said during a speech in Prague in April. Sixty-four years after the dropping of the A-bombs on Japan, survivors now hope to pass on their memories of their pain and suffering to the U.S. president.

Just prior to his inauguration, Obama stepped into a press conference room in Chicago accompanied by a diminutive Japanese-American man: Eric Ken Shinseki, 66, who was being given the post of Secretary of Veterans Affairs.

"There is no one more distinguished, more determined, or more qualified to build this VA," Obama said. Hawaiian-born Shinseki, who became the first Asian-American Army Chief of Staff in 1999, has roots going back to Hiroshima, and shares a great-great-grandfather with another Ken (Shinzeki) -- one of those affected by the calamity.

The end of July finds Ken Shinzeki praying before the Cenotaph in Hiroshima Peace Memorial Park. Despite suffering a stroke five years ago, he still visits occasionally on his walks. Looking up at the text written on the memorial -- "Rest in peace, for the error shall not be repeated" -- he remarks: "Everyone in the world should repeat these words."

No U.S. president has ever set foot in Hiroshima or Nagasaki, but hopes are high for a visit from Obama. Eric has never visited either.

"Among U.S. veterans, there are many who say that the nuclear attacks were necessary, so I think it might be hard for him (Eric) to visit Hiroshima. But still, I'd like him to come here and understand," Shinzeki says.

(This is the first of a two-part article)

(Mainichi Japan) August 4, 2009


Message to Obama: 'No child should be forced to experience nothing but war'

Eric Ken Shinseki's grandfather first moved from Hiroshima to Hawaii in 1899, according to records kept at the Foreign Ministry's archives in Azabudai, Tokyo. Ken lives in the same area in Japan his family once did today.

The scene of the explosion 64 years ago is still burned into his memories: his acquaintainces one-by-one succumbing to radiation sickness, and the sight of the cremation fires burning all night long, darkened by the silhouettes of people who threw more logs into the fire.

"No child should be forced to experience nothing but war," he said.

At the time, Ken was an elementary school student, dreaming of attending the naval academy on the nearby island of Eta. The following day, after feeling the tremor from the blast at the mountain temple to which he'd been evacuated, he heard his mother describe the ghastly scene to him; and on Aug. 17, he stood on the scorched earth himself.

"I was stunned by the piles of rubble lying around," he said. His family's home was also damaged by the blast, albeit not destroyed, and there were no casualties. Of his aunt's home, however, there was no trace left. His aunt had been left with horrific burns while trying to save her young daughter, and she succumbed to her injuries after 12 days. Shinseki's parents adopted their niece, the only one to survive.

Several years before that, the Shinseki family in the United States watched the black smoke curling up from Pearl Harbor, following the Japanese attack on Dec. 7, 1941 -- a year before the birth of Eric. With their original and adopted homes now at war, life for the Shinsekis grew increasingly harsh. Those of Japanese descent were labeled "enemy aliens", and hundreds were rounded up and placed in internment camps for fear of treason.

Like many other Japanese-Americans keen to prove their loyalty, two of Eric's uncles joined the U.S. military. "My heroes as a child were those young second-generation Japanese-Americans who joined up," he said during a speech in June.

After graduating from high school, he entered the United States Military Academy. Wounded in action in Vietnam, he went on to have a distinguished career, helping to tear down racial barriers in the U.S.

"I worked hard, and had a lot of good luck," he reflected in a speech in Japan four years ago.

As Secretary of Veterans Affairs, Eric Ken Shinseki now handles medical care and pensions for ex-servicemen, and receives more than his share of invitations to give lectures and speeches. But while he often speaks about the attack on Pearl Harbor, he has never referred to the bombing of Hiroshima, and has never spoken to reporters about the subject.

The Shinseki family holds a reunion every few years, where they proudly wear the family crest on their clothes and reaffirm their family ties. Last year, a relative from Oregon visiting Ken Shinseki asked him to come to the next reunion in Hawaii, giving him a chance to meet the other Ken for the first time. Shinseki already knows what he wants to say to him.

"Try and imagine: standing where the bomb fell, looking round and seeing where the homes of so many people lived, all destroyed in an instant."

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(Mainichi Japan) August 6, 2009


被爆の国から:
オバマ大統領へのメッセージ/2 ハワイの日本語教師

 ◆ハワイで育ったあなたは違う文化を受け入れられる。他国と共存できる核なき世界を目指してほしい。 ピーターソン・ひろみ
 ◇「核いらない」世代育成 古里ヒロシマ教科書に

 太平洋の青と砂浜の黄色。オバマ米大統領が学んだ古びた校舎の屋根のドームは、2色のシンボルカラーで彩られている。ハワイ・ホノルルのプナホウ学園。ここで学ぶ中高生の日本語教科書には、ヒロシマが取り上げられている。

 ケン「その時、何が起きたの?」

 祖母「急にピカッと光って、ドンとものすごい音がしたんだよ。子供たちの顔が真っ黒になっていた。庭の水で洗ってやったけど、孝子(娘)の体にガラスがたくさん刺さって……

 被爆2世の日本語教師、ピーターソン(旧姓・中井)ひろみさん(60)が、母や祖母に聞いた被爆体験を自作の教科書につづった。「日本語を学ぶには、日米の歴史の接点を知らなければ」。そんな思いから、原爆や日系移民などを題材にした教科書を作り始めて23年がたつ。

 父は広島の爆心地から約1・4キロで被爆し、右半身に大やけどを負った。山陰(やまかげ)の自宅にいた母や兄姉は大きなけがを免れたが、仕事で外にいた祖父は約1週間後に亡くなった。その3年後の1948年、ひろみさんが生まれた。

 戦争のしこりを意識したのは、大学時代に出会った米国人男性と結婚するためハワイに渡るときだった。「行かないで」と泣きながら祖母は引き留めた。原爆で夫を失い、息子も戦地から帰らなかった。「アメリカに人生をめちゃくちゃにされたという気持ちだったんでしょう」。わだかまりは解けなかった。里帰りしても祖母は決してひろみさんの夫に会おうとしなかった。夫は祖母の葬儀にも出られず、娘を抱いたまま外で待った。

 祖母の体験から「被害者」として見てきた日米の過去。だが数年前、中国系生徒の発表を聞いて、はっとした。生徒の家族は日本軍に殺されたという。中国戦線に出征した父の顔が浮かんだ。傷を負って広島に帰還し、被爆した父を「被害者」と思っていた。「でも、もしかしたら……

 孫と祖母の語らいはこう結ばれる。

 ケン「戦争で殺されるのは、ほとんど無実の普通の人たちなんだよね」

 祖母「原爆で広島の人口のうち20万人以上も亡くなったんだよ」

 太平洋戦争が始まった地。「原爆は正しかった?」と尋ねると、ほとんどの生徒が「Yes」と答える。だが、ヒロシマを学んだ後は、ほぼ半分の生徒が「落とすべきではなかった」と答える。「核はいらない」と考える世代が米国にも育ってきていると、ひろみさんは感じる。

 プナホウ学園は、白人やポリネシア系のほか、アジア系など多民族が学ぶ。「多様な価値観を持つ生徒たちと同じ教室で学んだオバマさんは特別な大統領。新しい時代が来たと感じます」とひろみさんは期待する。

 オバマ大統領の担任だったエリック・クスノキさん(60)も「気さくな人柄の彼はいろいろな意見を聞き、一緒に解決に導いていく生徒だった。ぜひ平和のために働いてほしい」と話した。

 ひろみさんはこの夏、教科書の収益を基に設けた平和奨学金を使い、ハワイから2人の生徒と広島にやってきた。祖母に伝えたい。悲しみは繰り返さない、と。【井上梢】=つづく

毎日新聞 200983日 東京朝刊


被爆の国から:
オバマ大統領へのメッセージ/3 見つけた「友の写真」

 ◆母を返せといってもかなうことではない。ただ、子どもたちに私のような思いはさせたくないのです。 松尾譲二
 ◇罪なき子、苦しめた

 2年前の冬。長崎原爆資料館を訪れた北九州市の松尾譲二さん(73)は、展示されていた写真を見て思わず声を上げた。

 「よっちゃん!」

 口を真一文字に結び、死んだ弟を直立不動で背負う少年--。米軍カメラマンだった故ジョー・オダネル氏が撮影した「焼き場に立つ少年」は、原爆の悲惨さを伝える写真として広く知られる。89年に公開されたが、少年が誰かは今も分からない。松尾さんには、幼友達の「よっちゃん」とうり二つに見えた。

 同い年の「よっちゃん」とは、爆心地近くの浦上天主堂あたりでよく遊んだ。近くに住んでいたが、学校が別だったこともあり、名前は思い出せない。

 「みんな『よっちゃん』と呼んでいた。うちの裏に土手があって雨が降ると水が流れてよく滑って遊んだ。楽しかったなあ」

 1945年8月9日午前11時2分。2人の運命は暗転する。

 松尾さんは、浦上天主堂近くの山に祖父が仕掛けたウサギのわなを見に行っていた。米軍機から爆弾が落ちてくるのが見え、次の瞬間、吹き飛ばされた。

 気が付くと、景色は一変していた。自宅は焼け落ち、誰もいない。母は弟を連れて買い物に出かけていたのか……。野宿をしながら捜し続けた。

 「死体をのけながら捜した。死体の腕を引っ張ったら腕が抜ける、足を引っ張ったら足が抜ける」。終戦後も死者はどんどん増える。死体を焼き場に積んで火にかけると頭がころころと落ちる。「一滴の涙も出なかった。涙が出たのは数年後やった」

 あちこちが焼き場になっていた。3カ月ほど、最後の死体が片づくまで捜したが、家族はおろか友人にも誰一人出会わなかった。「よっちゃん」にも。

 9歳で孤児になった松尾さんは長崎を離れ、北九州に向かった。八百屋になり、結婚もした。だが差別を恐れ、被爆者であることはずっと黙っていた。17年前、28歳の一人娘を肝硬変で亡くしたときも、一人で自分を責めた。「被爆と関係あるのかと思ったけど、女房にも話せなかった」。隠していた被爆証明書が妻に見つかり、被爆者だと打ち明けたのは10年前のことだ。

 被爆後に患った心臓病のために寝込むことも多いが、体調の良いときは絵筆をとる。「あの惨状を残そう」と描いてきた原爆の絵は、「あまりにむごたらしい」と思い直してほとんど処分した。今は、日本各地の風景や草花を描いている。「もう300枚くらいは人にやったかな」。絵に向かう目は穏やかだ。

 「時代が変わって、今は被爆したことを隠す必要もなくなった」。しかし、時代が変わっても、戦争が罪のない子どもたちを苦しめることに変わりはない。自分と同じように、原爆に人生を翻弄(ほんろう)された「よっちゃん」が気にかかる。

 長崎の被爆者たちは手を尽くして写真の少年を捜すが、見つからない。撮影場所も定かでないという指摘もある。それでも、松尾さんは信じている。「こんなにむくんで……。原爆のせいだよ。あのころは食べ物がなくてみんなガリガリだった」。やっと見つけた「友の写真」をいとおしそうに見つめた。【徳野仁子】=つづく

毎日新聞 200985日 東京朝刊


被爆の国から:
オバマ大統領へのメッセージ/4 8月6日に生まれて

 ◆家族にも被爆体験を語れずに亡くなった人もいる。その苦しみや悲しみを思い、原爆投下を反省してください。 工藤恵康
 ◇軍医・父の無念、後世に

 軍服の上に白衣をまとい、軍用犬の背をなでながらほほ笑む若き日の父。06年秋、91歳で亡くなった父の遺品を整理していた医師、工藤恵康(よしみち)さん(61)=京都府城陽市=は、古いアルバムに収められていた一枚の写真に吸い込まれた。

 「ああ、父さんは軍医だった。そして被爆したのだ」

 おぼろげに父が広島の陸軍病院で被爆したとは知っていた。だが、詳しいことは家族の誰にも話さなかった。「どこで被爆し、どんな景色を見たのか」。無性に父の過去が知りたくなり、足跡を追いかけた。

 遺品の中から、父の日記も見つかった。「太田川のほとり」「東望すれば広島城の天守閣」……。断片的な記述を手がかりに、被爆した病院がどこか探すことから始めた。原爆投下前後に米軍が撮影した航空写真をもとに調べ、それが広島第2陸軍病院だと分かるのに1年以上かかった。

 被爆者の父を自分は何も知らない。なぜ聞いておかなかったのか。こんなふうに歴史は忘れ去られていくのか。沸き上がる後悔が、工藤さんを駆り立てた。仕事の合間を縫い、東京の資料館や広島などに足を運んだ。当時の軍医仲間の話を聞き、古本屋で原爆投下前の病院の写真も探し出した。

 1945年8月6日。文語で書かれた父の日記は<七時目覚む。快晴>で始まる。原爆の閃光(せんこう)は<怪光一閃>と形容されていた。

 あの日、父は全壊した病院の地下からはい出し、夢中で広島郊外の国民学校にたどり着いた。がれきの下から助けを求める声が聞こえるのに何もできずに立ち去るしかなかった。学校でけが人の手当てをしたものの、まともな治療はできなかった。日記にはそんなことも記されていた。

 工藤さんは病院から学校までの道のりを自分の足でたどってみた。被爆直後、学校のグラウンドは多くの遺体で埋め尽くされていたという。グラウンドを見つめた時、<臓腑(ぞうふ)を搾るが如(ごと)き烈(はげ)しき悪心(おしん)、嘔吐(おうと)に襲われる>状態で治療を続けようとした父の姿を思った。<診ありて療なし>との日記の言葉に込められた無念さも感じた。

 「簡単に語れるはずがない」。父が被爆体験を語らなかった理由が少し分かったような気がした。結婚や就職などさまざまな被爆者差別がある中、家族を気遣って何も言わなかったのか、とも思う。

 80歳を過ぎてから中国へ留学し、しんきゅうを学ぶほど勉強熱心だった父を医者として尊敬している。患者から慕われ、信頼される穏やかな医者だった。その寡黙な父の背中を見てきた。

 原爆投下からちょうど3年後の8月6日に工藤さんは生まれた。原爆がもたらした悲しい事実を、父に代わって後の世代に伝えていくことが、宿命と感じている。今年も8月6日は広島へ行く。

 陸軍病院の跡地では慰霊祭が開かれ、遺族や被爆者らが集う。「生き残った人は、体験を語り継いでほしい」。そう伝えたい。

 もし、父が生きていたら……。今なら聞きたいことがたくさんある。【山田奈緒】=つづく

毎日新聞 200986日 東京朝刊


被爆の国から:
オバマ大統領へのメッセージ/5 新たな語り手、米で第一歩

 ◆核なき世界。それはまだ期待半分、疑問半分です。だけど、もう核兵器で誰かを泣かすことだけはやめてください。 土田和美
 ◇お母さん泣かさないで

 原爆が落とされた日のことを、母が誰にも告げずにつづっていたことを知ったのは、95年の暮れだった。

 母の部屋を掃除していた時、たまたま見つけた手記。子供たちの安否を案ずる心情、廃虚と化した街の惨状、夫の死……。土田和美さん(68)=埼玉県草加市=は、母の思いがしたためられた便せん14枚を大切にしまっている。

 「今日は八月六日あの忌まわしい原爆投下の日です。午後四時今頃は広島の街中火の海と化していた頃です」

 手記はそう始まる。広島への原爆投下から50年がたった95年8月6日に、母は筆をとった。その年の秋ごろから母はうつ病を患い、長い介護生活が始まった。

 「82歳の母は、なぜ半世紀もたってから書き始めたのだろう」

 母の症状が少し和らいだ時に一度だけ聞いたことがある。

 「道でね、水をください、水をくださいって……」。母は言葉を詰まらせ、手で水をすくって飲ませる仕草をし、おえつした。焼けただれた女学生の顔が浮かんだのだという。これが最後、二度と原爆や手記のことを聞けないまま、2年前の冬、母は亡くなった。

  ■   ■

 土田さんは、ずっと被爆の記憶を封じ込めてきた。

 4歳の夏。近所の男の子と牛乳の配給を受け取りに行った帰り、爆風に吹き飛ばされた。近くの家から立ち上る赤い炎と黒い煙。そして泣いている自分がいた。

 15歳の誕生日。後輩が突然、原爆症で亡くなった。ちょっとした病気を原爆に結び付け、「自分にも何が起こるか分からない」とおびえた。

 グラフィックデザイナーを目指して上京し、25歳を迎えた時。出版されたばかりの「ヒロシマ・ノート」(大江健三郎著)に出合い、「沈黙する権利がある」という言葉に救われた。「自分は黙っていてもいいんだ」と気が楽になった。

 28歳で結婚し、2人の子を育て、そして母の介護。原爆を思い出すことはほとんどなくなった。

  ■   ■

 母の死後、手記を読み返してみた。どんな思いで便せんに向かったのか、母にはとうとう聞けなかったけれど、夫を失い一人で4人の子を育て上げた母の背中をずっと見てきた。「母と自分の人生を誰かに語りたい」。そう思い始めていた。

 土田さんは今月上旬に渡米した。9日に巡ってくる69回目の誕生日を初めて米国で迎える。被爆者団体の企画に参加し、自分と母の体験を語る。還暦を過ぎ、仕事や子育てが一段落したころ、被爆体験を語り始める土田さんのような新たな語り手を、被爆者やその支援者らは「新人被爆者」と呼んで後押しする。

 原爆を投下した国の人々にどんな言葉で伝えたらいいのか。渡米を控え、土田さんは言葉を探した。「核兵器をなくそう」。そう訴えることも考えたが、自分の言葉ではないな、と思い直した。

 被爆体験を母に初めて聞いたあの日。母が流した涙を思い浮かべ、すっと言葉が出てきた。「世界のお母さんを泣かさないで」【石戸諭】=つづく

毎日新聞 200988日 東京朝刊


被爆の国から:
オバマ大統領へのメッセージ/6 体験を語る元自衛隊幹部

 ◆被爆者の私は対核防護セットを持ち歩いています。こんなものを持たなくてすむ世界を作ろうではありませんか。 加藤高明
 ◇「核防護」必要だけど

 今年になって2度、加藤高明さん(74)=さいたま市=は故郷の長崎市内を歩いた。64年前、国民学校5年の、夏休みだけど午後は登校日だったあの日、自宅近くの友人宅の縁側でおはじき遊びをしていて空を見上げようとしたあの時。午前11時2分。世界がまっ黄色に染まり、次の瞬間、吹き飛ばされて散乱した畳の下に埋まった。あの場所に立ち、爆心地まで歩いてみたかった。

 記憶は昨日起きたことのように鮮明だ。全身にけがをし、運び込まれた防空壕(ごう)の入り口で、4歳上の先輩が「ちくしょう、ちくしょう」と叫んでいた。壕からは一歩も出なかった。1週間後、父が疎開を決意する。一家全員で荷物を抱え市外に出た。

 倒壊した家は建て直されていたが、母屋の石垣はそのままだった。爆心地まで1・5キロ。方向は分かっている。野戦病院ができて、焼死体の山があった先。戦後どんどん住宅が建ち進んでも、故郷を焼き尽くした爆発の方向は忘れようがない。ぶらぶら歩いても30分。初めて実感した。原爆はこんなに近かった--。

 高校卒業後、大学では獣医師の資格を取ったものの、折から就職難の時代。幹部自衛官を養成する陸上自衛隊の幹部候補生学校に進むことを決めた。陸自では化学職種。約30年、主に核・生物・化学兵器に対処する化学部隊にいた。核・生物・化学・放射能兵器は英語の頭文字を取って「NBCR兵器」と呼ばれる。「被爆者で、獣医で、化学防護隊長を務めた私は『NBCR』をすべて経験した変わり者です」。はにかんだ笑顔に誠実さがにじむ。

 陸自で教える対核防護の3原則は「距離」「時間」「遮へい」。被爆被害を少なくするには、できるだけ離れ、滞在時間をなるべく短くし、ビルや地下に退避せよと教える。加藤さんが被爆時に遊んでいた縁側の木の壁の向こう側が爆心地だ。熱線に直接さらされずに済んだのだ。加えて、父が早めに疎開を決断したため、残留放射線をあまり浴びなかった。防護理論はそのまま加藤さんの実体験に重なる。

 退官後、NPO「NBCR対策推進機構」(東京都中野区)の設立に加わり、いま副理事長としてテロ対策などを講演して回る。被爆体験を一般の人に話し始めたのは最近のことだ。体験を交えれば、相手は身を乗り出して聞いてくれる。持ち歩いている「核防護セット」をカバンから取り出してみせる。頭からすっぽりかぶって「死の灰」(放射性降下物)から身を守る大きなビニール袋や生き埋めになったとき役立つ警笛など。「自分の安全は自分で守ることが基本です」。信念を口にする。

 被爆者にとって核廃絶は悲願だ。一方で核兵器に対する備えすら拒む長崎市民が多いことも、加藤さんは知っている。「核に反対しなきゃと思う。でも、核保有国に囲まれ、北朝鮮も持とうとしているときに、日本だけ持たないでいいのかとも思う」。理路整然とした口調が一瞬、小声になった。「揺れ動いているんです」【滝野隆浩】=つづく

毎日新聞 200989日 東京朝刊


被爆の国から:オバマ大統領へのメッセージ/7 偏見で凍った心溶け

 ◆罪もなく命を奪われた者の無念さと、生き残った者の苦しみを知ってください。二度と核兵器は使わないで。 安部仁子
 ◇みんなの分も生きる

 「誰にも頼らず一人で生きていこう」

 被爆者への偏見で、つまずきそうになるたび自分に言い聞かせてきた。

 「みんな死んだ中で、私は生き延びたんだから」

 がむしゃらに生きてきた。

 最近思う。「一人で生きてきたようで、一人じゃなかった」と。

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毎日散歩するという多摩川の土手で遠くを見つめる安部仁子さん=東京都狛江市で、小林努撮影

   ■  ■

 東京都狛江市の安部仁子(とよこ)さん(73)は1945年8月9日、長崎に落とされた原爆で両親と姉弟3人を失った。焼けてしまった家族の変わり果てた姿に足が震えた。9歳の安部さんは自宅裏の防空壕(ごう)に逃げ込んで助かった。

 終戦後は、横浜に住んでいた兄夫婦の家に身を寄せ、大学にも進んだ。テニスに打ち込む楽しいキャンパスライフ。だが、恋愛からはいつも一歩ひいていた。「本気になった人に被爆者だってことで突き放されたら悲しいじゃない」

 被爆による遺伝的な影響は医学的に証明されていないのに、偏見だけが独り歩きしていた。被爆を理由に見合いを断られたこともあった。それでも知人に紹介された公務員と28歳で結婚。妊娠したが、今度は夫の親族に「子供に被爆の影響が出る」と言われ、出産をあきらめた。

 理不尽な言いがかりに、不思議と怒りはなかった。当時を振り返り、「私も怖かったのよ」と声を絞り出す。「いつ原爆症が出て不自由な体になるかもしれないのに、子供まで……」。被爆直後の恐ろしい光景がよぎる。出産する勇気はなかった。

 35歳で離婚。仕事に打ち込み、マンションを買い、1人暮らしを始めた。「誰も頼りにするものか」。心は閉じかけていた。

 そんなころ、電車の中で若い女性に突然声をかけられた。「これは銀座に行きますか?」。女性の沈んだ表情が気になり、目的地まで案内した。数日後、駅のホームでばったり再会した。彼女の目はうつろで、生きる力を感じさせなかった。そのまま放っておけず、家に誘った。

 結婚生活に悩み、自殺未遂の末に上京したという彼女を前に、長崎のことを考えた。黒焦げになって亡くなった父と母、そして未来を奪われた弟や姉たち。「生きたくても死んじゃった人がいるんだから。一緒にやり直しましょうよ」。思わず口にしていた。

 「自殺を考えない」「薬や酒に逃げない」ことを条件に、仕事探しから食事の世話まで「生きる手伝い」をした。赤の他人との不思議な二人三脚が始まった。

 それから約30年。今は本当の妹のように思っている。再婚して新しい家庭を築いた「妹」は「お姉さんに何かあったら、今度は私がお世話するからね」と言ってくれる。「妹」の子供たちの成長が何よりうれしい。支えたつもりが、いつしか支えられていた。

 夕方に多摩川の土手を散歩するのが日課になった。草や土のにおいに、土いじりが好きだった父をふと思い出すこともある。「生きられなかった人の分まで長生きするの」。夕焼け空を眺め、つぶやいた。【山田奈緒】=つづく

毎日新聞 2009810日 東京朝刊


被爆の国から:オバマ大統領へのメッセージ/8 「原爆の子」との約束

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日本の原子力政策を振り返る森一久さん=東京都港区で、小出洋平撮影

 ◆原爆の怖さを知った日本は、平和利用に努めてきました。核技術を手にする国には品格が求められています。森一久
 ◇品格持ち平和利用を

 被爆した広島市の少年少女の手記を集めたベストセラー「原爆の子」(岩波書店、1951年)で、何人かが「原子力の平和利用」に触れていることはあまり知られていない。たとえば、当時小学2年だった田辺俊彦君はこう書いた。<原子力はおそろしい。(略)人間はほろびてしまう。でも、よいことに使えば使うほど、人類が幸福になり、平和がおとずれてくるだろう>

 広島が地獄となった日からわずか6年。若い魂は深い悲しみと同時に、新しい科学の可能性を感じていた。被爆者で元日本原子力産業会議副会長の森一久さん(83)は、戦後しばらくしてこの本を手にする。そして、平和利用は原爆の子との約束だと思い至った。

 投下直前の8月3日。京都帝大理学部物理学科の学生だった森さんは、疎開せずに広島市内にいた両親が心配で帰郷した。6日午前2時、医師として近くの小学校に詰めていた父が帰宅。母と3人、配給の砂糖でお茶を飲んだのが最後となった。午前8時15分、爆心地から1キロの倒壊した家屋の下で助かったのは森さん一人。翌日、焼けて骨となった父を見つけた。母を捜して市内をさまよい大量の放射線を浴びる。生き延びたのは奇跡だった。

 翌年になって大学に戻り、恩師である湯川秀樹博士の下で素粒子論を修めて卒業した。戦後は何かに突き動かされるように、原子力発電と核燃料サイクル推進の中心に入っていく。大手出版社に入社して科学雑誌の編集をしながら、物理学者らと平和利用について勉強会を重ねた。産業界が原子力に前向きだという話を聞きつけて抗議にいくうちに、56年にできた民間側の推進団体・日本原子力産業会議の中心スタッフになっていく。組織の外で批判するより内側で監視すべきだという判断からだった。原子力基本法に「民主・自主・公開」の平和利用3原則を盛り込むよう強く求め、政府の対米交渉や日本の原子力研究の拠点となる茨城県東海村への視察に同行もした。

 04年、同会議の副会長を退任するまでの半世紀、原子力にかかわってきた。日本の原子力政策は、両親を殺され自らも死の瀬戸際に追い込まれた被爆者を真ん中に抱えてきたことになる。森さんには恩師への思いもある。「日本人の心が原爆開発に向かわないか、一番心配していたのが湯川先生でした。核に不感症にならないか、と」

 いま世界では「原子力ルネサンス」が起きている。原油高騰や環境問題から原発が見直されているのだ。だが、原発が稼働すれば核兵器の原料ができ、リスクは高まっていく。「ルネサンスというのは精神性のことでしょう。原子力というとんでもない科学技術に向き合うときは、品格が必要になる」

 日本の原発は事故やトラブル続きだ。森さんはそれが悔しくてならない。オバマ米大統領はプラハ演説で「核を拡散させないための原子力平和利用」にも触れた。いまこそ日本の出番であるはずなのに。「最近の原子力関係者は責任逃ればかりしている。平和利用に全力で取り組むという原爆の子との約束を、忘れてはなりません」【滝野隆浩】=つづく

毎日新聞 2009811日 東京朝刊


被爆の国から:オバマ大統領へのメッセージ/9 北朝鮮の姉案ずる弟

 ◆軍事大国の米国が核廃絶を訴えても、きれいごとに聞こえます。核の脅威から世界を救う道筋を示してほしい。匿名の在日朝鮮人被爆者
 ◇苦しみに国境はない

 北朝鮮にいる被爆者を追ったドキュメンタリー映画「ヒロシマ・ピョンヤン~棄(す)てられた被爆者」が7月23日、広島市で初上映された。市内に住む在日朝鮮人の男性(73)はスクリーンに見入った。40年近く前に日本を離れ、北朝鮮に暮らす姉(76)が映し出されていた。

 「目が飛び出た人、服が燃えて胸がそのまま出ている人……。これ以上の地獄はないと思いました」。民族衣装のチマチョゴリ姿で原爆の悲惨さを語る姉。家族でさえ思うように連絡がとれず、もう7年会っていない。

 「体調は大丈夫だろうか」「原爆症に苦しんでいないか」

 わずか40秒ほどの「再会」。心配が募った。

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 1945年8月6日。男性は、姉、父と共にたまたま島根県の疎開先から自宅のある広島に向かっていた。その日の朝、原爆が投下されたことなど知るよしもない。すれ違う汽車の窓は割れ、乗っている人の服や髪は焼けていた。「広島に大きな爆弾が落ちた」とだけ聞いた。汽車は途中で止まり、後はただ必死に歩いた。

 数年後、突然髪が抜け、同級生からいじめられた。東京の朝鮮学校に進んだが、広島出身というだけで同胞からも避けられた。結婚後も差別を恐れ、3人の子が全員結婚した60歳で被爆者健康手帳を申請した。「原爆は生き残ったものまで苦しめる」。その恐ろしさ、残酷さは身にしみている。

 毎年8月6日は、ある忘れられない橋に水を供える。必死に歩いたあの日、全身焼けただれ、「水を……」という言葉を残して息絶えた被爆者を見た橋。目に焼きついたその姿に核の恐ろしさを重ね、平和を祈る。

   ■  ■

 「何てことを」。今年5月、北朝鮮が核実験をしたと聞いて思った。それでも「朝鮮戦争は休戦中で、まだ終わっていない。敵国アメリカが軍事力を蓄えているのに、防衛しなければ、姉たちは死んでしまう。核実験を責められない」と主張する。「思いは複雑なんです。苦しいですよ……」。目に涙が浮かんだ。

 最近、ニュースを見るのが怖い。北朝鮮に対する経済制裁のニュースが流れるたび、北に渡った家族を思い、胸が痛む。在外被爆者の姉にも被爆者健康手帳を取ってあげたいが、その道は険しい。

 日本で生まれ、日本で育ち、日本人の友もいる。しかし「自分の考えは日本人には理解されない」と分かっている。「名前を公表すれば子や孫が嫌がらせを受けるかも」という理由で、男性は「記事にするなら匿名にしてほしい」と話した。

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 映画を製作したフォトジャーナリスト、伊藤孝司さん(57)は98年から毎年北朝鮮に入り、当局を介し、被爆者を取材した。国交がなく被爆者健康手帳の取得が進まず、支援から取り残された北朝鮮の被爆者の姿を伝えるためだ。「どの国の被爆者も苦しんでいる。核廃絶が私の願い」

 上映会の後、男性は伊藤さんと握手した。「国家の関係がどうあれ、被爆者の救済は積極的に行われるべきだ」。2人の思いは重なる。そして、平和を願う気持ちはどこの国に暮らしても同じだと信じている。【山田奈緒】=つづく

毎日新聞 2009812日 東京朝刊



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