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中越沖地震から2年


中越沖地震:国道352号が復旧 椎谷岬トンネル新設し

201017 1115分 更新:17 223

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中越沖地震の復旧工事で新設された「椎谷岬トンネル」。右は地震で土砂に埋まった旧道=新潟県柏崎市椎谷で2010年1月7日午前10時21分、五十嵐和大撮影

 07年7月の新潟県中越沖地震で被災した道路で唯一、復旧工事が続いていた柏崎市の国道352号「椎谷(しいや)岬トンネル(886メートル)」が完成し、7日午前にあった開通式典で泉田裕彦知事は「トンネルを地域のさらなる復興に有効活用したい」と話した。午後3時に通行止めが解除され、地震発生以来約2年半ぶりに不通区間が解消された。

 国道は日本海に突き出した崖(がけ)の中腹を縫うように走っており、地震による大規模な土砂崩れで陥没などが起きた。県は08年5月から総工費34億円をかけて不通区間を迂回(うかい)する椎谷岬トンネルを建設していた。【五十嵐和大】

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中越沖地震:新潟県が災害対策本部を解散

 新潟県は15日、復旧に一定のめどがついたとして、中越沖地震直後に設置した災害対策本部を解散した。甚大な被害を受けた柏崎、長岡市と出雲崎町は9月30日に、刈羽村は10月9日に災害対策本部を解散している。

 復興公営住宅に移った被災者や高齢者らの生活支援、地元商業・観光の再生など残る課題については今後、県が随時開く復旧・復興会議で対策を練る。【小川直樹】

毎日新聞 20091015日 1920


中越沖地震:柏崎市が対策本部を解散 発生から2年で

 新潟県中越沖地震(07年7月16日)最大の被災地となった同県柏崎市は30日、地震直後に設置した災害対策本部を解散した。最後の対策本部会議で会田洋市長は「全国の皆さんから支援をいただき、大変速いスピードで復旧が進んだ」と謝意を述べ、市役所内に掲げていた対策本部の看板を外した。

 同市では14人が死亡、1664人が負傷し、住宅は全壊1121棟を含む2万8423棟に被害が出た。ピーク時に902世帯2477人が暮らした仮設住宅は、9月14日までに全員退去し、復興公営住宅などに移った。今後の被災者支援は復興本部が引き継ぐ。

 県と刈羽村の災害対策本部は、同村の被災者の住宅再建や公共施設の復旧にめどがつくまで当面存続させる。

毎日新聞 2009930日 1921分(最終更新 101日 048分)


中越沖地震:柏崎の仮設住宅 最後の入居者が退去

2009914 2228

 新潟県中越沖地震(07年7月)の最大の被災地である同県柏崎市に建てられた応急仮設住宅で、最後の入居者が14日、退去手続きを済ませた。近隣の出雲崎町、刈羽村は既に仮設住宅からの退去が完了しており、被災者全員が新しい生活の場に移った。

 柏崎市によると、地震後、市内39カ所に1007戸の仮設住宅が建てられた。ピーク時の07年11月には902世帯2477人が入居。その後、635世帯が自宅を再建したり購入し、157世帯が復興公営住宅に、75世帯が民間の賃貸住宅に入居するなどした。

 退去が完了した仮設住宅は08年2月から撤去が始まり、7カ所の撤去が終了。残る32カ所も11月上旬をめどに撤去を進める。【長谷川隆】


中越沖地震:復興公営住宅が完成 被災者に鍵手渡す

2009821 1958

 07年7月の新潟県中越沖地震で、自宅を失った柏崎市の被災者向けに建設された最大規模の復興公営住宅が完成し21日、入居者28世帯に鍵が手渡された。

 今回、鍵が渡されたのは、市中心部のJR柏崎駅前に完成した5棟のうちの1棟30戸。入居者の多くが高齢者のため、鉄筋コンクリート5階建ての同住宅にはエレベーターや手すりが備えつけられたほか、孤立しないよう交流スペースが設けられ、当面は市の担当者やボランティアが生活相談などに応じる。

 市は08年から市内5カ所に計224戸を建設しており、今回の28世帯を含めて仮設住宅に暮らす245世帯543人(7月末現在)の大半が入居予定。

 入居者に鍵を渡した会田洋市長は「長い間お待ちいただいた。支え合い、助け合って暮らしてほしい」と約2年間の仮設住宅暮らしをねぎらった。家族3人で入居する元井準次さん(58)は部屋に入ると「やっとスタートラインに立てた気持ち。早く話し相手を見つけたい」と安堵(あんど)の表情を浮かべた。【五十嵐和大】


やるでビール:神戸から新潟へ 売り上げ一部被災地に寄付

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神戸の新しい地ビール「やるでビール」。新潟県中越沖地震の被災地支援のため、売り上げの一部を寄付する=神戸市兵庫区で、高山梓撮影

 神戸市兵庫区の若手商店主らが、新潟のビールメーカーと協力し、神戸の地ビール「やるでビール」をつくり販売を始めた。発生から2年が過ぎてもいまだに仮設住宅が並ぶ新潟県中越沖地震(07年7月)の被災地を支援するために、売り上げの一部を寄付する。「阪神大震災(95年)で多くの人に助けてもらった。今度は恩返しをする番」と意気込んでいる。

 兵庫区の湊川地区で飲食店や洋服店などを営む20~40代の商店主ら18人で作る「湊川やるで委員会」。同地区は、大型商業施設の進出や不況の影響で近年、客足が激減。新型インフルエンザ騒動も追い打ちをかけ、委員会は「地域活性化のきっかけにしよう」と地ビール製造を計画した。

 メンバーは新潟のビール会社「新潟麦酒」の担当者と知り合い、ともに大地震で大きな被害を受けた経験を語り合った。中越沖地震の被災地では、いまだに仮設住宅で770人が生活するなど、復興には遠い現状を知り、「同じ苦しみを知っているからこそ助け合おう」と、地ビールを共同開発し、売り上げの一部を被災地に寄付することを決めた。

 「やるでビール」はコクのある辛口が特徴で、1本(350ミリリットル)525円。委員会代表の松井信也さん(44)は「新潟の人たちも復興へ向けて『やるで』と気合を入れて」と話している。問い合わせは湊川やるで委員会事務局(078・511・5332)。【高山梓】

毎日新聞 2009719日 1107分(最終更新 719日 1540分)


中越沖地震:復興へ誓い新たに16日で2年

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中越沖地震から2年となり地震発生時刻に合わせ黙とうする被災者ら=新潟県柏崎市のえんま通り商店街で2009年7月16日午前10時13分、内藤絵美撮影

 最大震度6強の揺れに見舞われ、15人が犠牲になった新潟県中越沖地震から丸2年を迎えた16日、最も大きな被害を受けた柏崎市の市民プラザで午前10時から合同追悼式が営まれた。被災者や泉田裕彦知事ら約420人が犠牲者の冥福を祈り、復興に向けて誓いを新たにした。

 追悼式では、倒れた扉の下敷きになって死亡した元井元(はじめ)さん(当時77歳)の長男春夫さん(54)が、出席した遺族9人を代表して「震えは今でも忘れることができない。7月16日を追悼の日にとどめず、明るい未来にするため私たちができることを考える日にしていきたい」とあいさつした。

 発生時刻の午前10時13分、多くの商店が倒壊した同市中心部の「えんま通り商店街」や、6月末現在で325世帯770人が暮らす仮設住宅、5月に発電を再開した東京電力柏崎刈羽原発などで黙とうがささげられた。

 「えんま通り商店街」で写真店を営む吉野明雄さん(55)は、震災直後から商店街に住む人々の写真を1万枚以上撮り続けてきた。「2年間でみんなの表情も徐々に明るくなってきた。隔世の感があるが、地震を忘れてはならない」と話した。「柏崎東本町二丁目振興会」の寺沢式一理事長(60)は「あっという間の2年間だった。思うように町並みが復興せず焦りを感じているが、町内一丸となって活気を取り戻していきたい」と話し、黙とうをささげた。

 仮設住宅は9月に2年間の入居期限を順次迎えるため、市は4カ所に200戸分の復興公営住宅を建設している。この日は8月に完成予定のJR柏崎駅前の住宅で被災者向けの内覧会もあった。【五十嵐和大、畠山哲郎】

毎日新聞 2009年7月16日 11時13分(最終更新 7月16日 12時08分)



中越沖地震:2度の被災で自営の酪農廃業 でも牛と生きる

 15人が犠牲になり住宅約4万2000棟が被害を受けた新潟県中越沖地震から16日で丸2年。立ち直りかけた被災者たちが、昨秋以降の不況で再び窮地に立たされている。旧山古志村(現長岡市)出身で、04年10月の中越地震と合わせ2度の震災を経験した柏崎市の酪農家、五十嵐英利さん(53)もその一人だ。【五十嵐和大】

 「去年と牛舎が変わったんだ。廃業したの」。1年ぶりの電話に淡々と話した。五十嵐さんは昨年、柏崎市の山間部にある牛舎を借りて20頭余の乳牛を育てていた。

 高卒後、酪農の道に進んで30年。「休みは結婚式と盲腸の手術の時だけ」というほど働き詰めた。しかし、中越地震で山古志村にあった牛舎が倒壊、生き残った乳牛は34頭のうち2頭だけだった。

 自宅も生活の糧も失い、山古志村での再開はあきらめ、酪農会社の社長に誘われて移り住んだ柏崎市で、今度は中越沖地震に襲われた。自宅の壁が裂け、ボイラーが壊れた。被害は軽かったが、再び被災者となった。2カ月後、市内で20頭ほどの牛舎を営んだ。ところが、原油高騰のあおりで飼料代などの経費がかさみ、赤字が膨らんだ。「多額の借金を背負える年齢じゃない」。家族に相談し、昨秋には廃業を決めた。

 長距離トラックの運転手などで食いつないだが、牛のいない生活に寂しさが募り、今年4月には酪農会社へ戻った。「努力しても、どうにもならないこともある。酪農も、2度の地震に遭ったことも」と五十嵐さん。収入は減ったが、家族7人、どうにか食べていける暮らし。「おれには牛しかない。気楽に暮らすのが性に合ってる」。先のことは考えないようにしている。

    ◇

 柏崎市と刈羽村で仮設住宅に暮らす325世帯770人(6月末現在)は、9月の入居期限までに全員退去できる見通しとなった。15日会見した同市の会田洋市長は「住宅再建に区切りが付いたが、雇用の確保や中小零細企業への支援が必要だ」と強調した。

毎日新聞 2009715日 2037


「再生」への道筋:
中越沖地震2年/下 被害の全体像、未解明 /新潟

 ◇再開間近の原発7号機


 「ご質問は、ありませんか」

 8日、柏崎市のホール。中越沖地震後9回目を数えた、東京電力による柏崎刈羽原発に関する説明会の会場は静まり返っていた。全7基のうち最も復旧作業が先行した7号機の起動試験を控えた2月の説明会では質問が相次いだが、この日は司会者も「こんなに質問が少ないのは初めて」と苦笑するほどだった。

     ◇

 7号機は5月9日に起動試験に入り、「40~50日」という東電の見込み通り6月19日までにすべての試験項目を終えた。しかし、それから1カ月近くがたとうとしているのに、営業運転へ移行できない状態が続いている。国と県技術委員会は「安全上の問題はない」との評価を示したが、泉田裕彦知事、会田洋柏崎市長、品田宏夫刈羽村長による了承が得られないからだ。

 県技術委での審議結果について、県は11、12日、県民向けの説明会を開いた。新潟市での会に参加した出席者の一人は「慎重に判断しているという姿勢を強調する『アリバイ作り』のようだった」と感想を述べる。

 県と市、村は起動試験入りの段階で「事実上の運転再開」と見なして了承。7号機は既に営業運転と同様の出力100%の発電を行っている。

 品田村長は営業運転を容認する意向を示す一方、会田市長は、村長との立場の違いを周囲に漏らしているという。原発の安全性を巡り、市民の間には懐疑的な意見が根強い。営業運転再開を前に、泉田知事に対し3者会談を申し入れるなど慎重な姿勢を示す背景には、02年に明らかになったトラブル隠し問題をはじめ、東電の企業姿勢を疑う市民への配慮がうかがえる。

     ◇

 7号機の営業運転再開と同時に、6号機の起動試験開始も控える。同原発の高橋明男所長は9日の会見で「ここまで来るのに、大変多くの人にお世話になった。やるべきことを一つ一つ慎重に進めてきた結果だと思う」と振り返った。

 一方、残る5基の設備点検の進ちょく率はまちまちだ。特に2、4号機は点検作業がほとんど進んでいない。東電は「これまでは作業員を6、7号機に集中して投じてきた」と説明。復旧作業に当たる下請け業者の関係者は「地震による被害には相当な差がある。被害の全体像や復旧の見通しが明らかになるまで、まだ数年はかかるのではないか」と指摘する。

 地震から2年を迎える16日の午前10時13分、原発構内では社員や下請け作業員約8000人が犠牲者に黙とうをささげるという。【五十嵐和大】=おわり

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 ◆柏崎刈羽原発の設備点検進ちょく率

    目視点検 作動・機能確認
1号機  93%    80%
2号機  準備中    準備中
3号機  80%    77%
4号機  20%    13%
5号機  68%    51%
6号機 100%   100%
7号機 100%   100%
 6月22日現在。東電の資料から

毎日新聞 2009715日 地方版


「再生」への道筋:
中越沖地震2年/中 高齢者、どう見守る /新潟

 ◇支援態勢模索の動きも


 「今まで仮設に入れてもらって、良かったと思ってるて」

 柏崎市中心部のJR柏崎駅近くにある仮設住宅。罍(もたい)ハツさん(73)は、不自由ながらも、2年間続いた仮設暮らしに感謝している。南西へ約10キロ離れた山あいの上輪(あげわ)新田地区で約20年前まで米作りに励んだ。地震前の07年2月に夫を亡くし、1人暮らし。自宅は地震で全壊し、近くの仮設住宅に入った。

 ところが、仮設の退去期限が迫り、入居者は罍さん一人に。孤独になることを心配して市は昨年末、罍さんに駅前の仮設へ移転してもらった。

 近くには商店街や大型スーパーもある。「体の調子が良ければ、歩いて買い物にも出られる」。利便性がいい都市部の暮らしにも慣れ始めたようだ。

     ◇

 仮設への入居は中越沖地震から1カ月後の07年8月に始まった。ピーク時の同10月には1061世帯3044人いた入居者は自宅の再建などで退去が進み、6月末で325世帯770人と3分の1以下に減った。残っている人たちの多くは8月に完成予定の復興公営住宅への入居を待っている。

 地震直後から「家を再建する気にはならなかった」という罍さんもその一人だ。入居予定の部屋は仮設から目と鼻の先にあり、「天気が良ければ、どんな部屋か、見に行ってみたい」と期待する。ただ「(復興公営住宅へ)行ったら行ったで、また近所の人たちと、仲良くしなくちゃいけないね」。地震後約2年間で、避難所を含め4回目の引っ越し。新たなコミュニティーに不安も残る。

     ◇

 市は仮設で暮らす被災者について各世帯ごとに台帳を作り、住宅再建の計画や健康状態、家庭の事情に至るまで細かに相談に応じてきた。04年の中越地震で問題となった被災者の孤独死も起きていない。しかし、復興公営住宅への入居後、高齢者をどう見守るかが課題として残る。市復興支援室の白川信彦室長は「これからも、私たちの仕事が続く」との認識を示す。

 復興公営住宅へ入居する高齢者らを支える態勢を模索する動きも出てきた。柏崎駅前の3商店街は、買い物の配達と入居者の安否確認を兼ねた学生ボランティア「御用聞き隊」を結成する準備を進める。企画したNPO「全国防災・災害支援ネットワーク会議」の羽鳥大成代表理事は「本人が元気だと思っていても、毎日誰かが接することで、継続的な被災者支援が可能になるはず」と話している。【五十嵐和大】

毎日新聞 2009714日 地方版


中越沖地震:小さな絵本館を再開 大災害から16日で2年

2009713 150分 更新:713 1530

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再開された絵本館「サバト」で、地震直後に生まれた男の子に絵本を読み聞かせる西川さん=新潟県柏崎市で2009年7月、五十嵐和大撮影

 新潟県中越沖地震の被災地・同県柏崎市で、住民有志が運営する小さな絵本館「サバト」(安息日)が再開にこぎ着けた。15人が死亡、2346人が重軽傷を負った大災害から16日で丸2年。築70年の風格ある建物は失われたが、がれきの下から救い出された絵本が地震後に生まれた子供たちの夢をはぐくんでいる。【五十嵐和大】

 サバトは、多くの商店が倒壊した市中心部の「えんま通り商店街」近くにある。活動を始めたのは地震の前年。代表の西川(さいかわ)暁子さん(63)が、休業中の産婦人科医院の建物にひかれたのがきっかけだった。昭和初期の「擬洋風」木造建築で、年月を重ねた土壁にも独特の雰囲気があった。所有者の宮川久子さん(78)に頼み込み、「息子が医院を開業するまで」という条件で借り受けた。

 ところが、建物は地震で全壊し、約5500冊の絵本もがれきに埋もれた。避難所に逃れた宮川さんは真っ先に「絵本を助けなきゃ」と考えたという。「明治時代から産声を響かせてきた医院は、絵本館に生まれ変わって子供たちを楽しませていた。脈々とつながっているんじゃないかと思って」

 ボランティアの手を借りて絵本を運び出し、関係者の倉庫で保管。建物も一般住宅風の木造2階建てで再建され、今年5月に元の場所で再び扉を開いた。ただ被災者はなお、元の暮らしを取り戻すのに精いっぱいだ。約30人いたスタッフは自宅の再建や仕事に忙しく、20人程に減った。

 それでも、サバトは元の活気を取り戻しつつある。震災後に生まれた乳幼児を連れた母親が訪れるようになった。明治時代のものという木彫りのベンチや机は今も子供たちの遊具になっている。絵本を運び出したのが縁で、運営を手伝ってくれる仲間も現れた。「震災を機に人の輪は一層広がった」と西川さんは言う。16日には再開を記念するギターコンサートを開く予定だ。


「再生」への道筋:
中越沖地震2年/上 地場産業、相次ぐ大量解雇 /新潟

 ◇被災者、再び窮地に


 「できることなら、地元で仕事を続けたいのだけれど……

 5月に民事再生法適用を申請した電子機器部品メーカー「研精舎」(本社・東京)。同社の柏崎市の工場に勤務し、6月24日付で解雇された男性(44)が胸の内を明かした。同社は柏崎、長岡市の5工場を事実上閉鎖し、従業員約380人のうち約270人を解雇した。その多くは再就職のめどが立っていない。

 同社はアルミなどの金属加工を得意とする、柏崎市の典型的な地場産業だった。高い技術力を武器に、中越沖地震が起きた07年ごろは携帯音楽プレーヤー「iPod」のヒットもあり部品の受注が伸び、業績は好調だった。

 それが一転して、08年秋からの世界的な景気の悪化の影響を受ける形となった。別の元従業員(51)も「残業で手取りも増え、同業者から一時は『研精舎はいいな』とうらやましがられるほどだった」と嘆く。

 従業員の多くは柏崎市内に暮らす。地震で自宅が被災し、改築などで新たにローンを組んだ人もいる。

 「新築した自宅を引き渡される間際に会社がつぶれた。新居に足を踏み入れると『中古』になってしまうから、そのまま売りに出す」「住宅ローンの契約書に印鑑を押す前に、会社から解雇通知が来た。仕方なく契約をあきらめた」

 関係者の話からは、順調だった生活再建が一瞬のうちに崩れ、再び窮地に立たされている被災者たちの姿が浮かび上がってくる。

     ◇

 柏崎市では研精舎以外にも、大量解雇が相次いでいる。6月には電気機械器具製造「エムディケー」が事業を停止。従業員約100人が職を失った。自動車部品メーカー「リケン」は市内の事業所や関連会社で約370人の派遣社員、契約社員を削減した。

 被災地の柏崎市、刈羽村、出雲崎町を所管するハローワーク柏崎によると、管内の5月の有効倍率は0・33倍で、全県の0・44倍を大きく下回る。研精舎、エムディケーの影響が加わる6月の数字は、さらに悪化するのが確実な情勢だ。

 田中泰司所長は「求職者は昨年の今ごろに比べ倍増した。地元での職種転換が難しい場合は、他県へと流出する人も現れるだろう」と「出稼ぎ」の可能性にも言及する。

   × × ×

 16日で中越沖地震から2年。地震で壊れた建物や道路はほぼ元通りになり、仮設住宅に暮らす325世帯770人(6月末)も秋までには退去の道筋がついた。しかし、すべてが順調なわけではない。「地元経済が上向かない限りは、被災者にとって忍耐の日々が続く」と柏崎市の幹部は指摘する。被災地の復興は今、正念場を迎えている。【五十嵐和大】

毎日新聞 2009713日 地方版


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