The BEATLES Rebirth
よみがえる!ザ・ビートルズ

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<その12>続・ビートルズの愉悦
20091217

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1966年のビートルズ東京公演。右からジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スター、ポール・マッカートニー

 マルクスやエンゲルスの「書誌学的研究」においては日本は共産圏に負けない、というような記事を随分昔に読んだ。書誌学とは出版物や文献の考証的研究ということになるが、早い話が、いつどんなふうな事情で書かれたかを突きとめ、順序立てたりするのである。日本人はこの才があるらしい。好奇心が強く、愛着を持ったらとことん調べたくなり、整理に優れる。だからこそ明治維新の後、あっという間に西洋文明の科学から哲学まで吸収、体系化した。さて、話はぐーんと飛んでビートルズ。彼らについての書誌学的研究も日本は本場英国に負けぬほどだが、この師走、「聖書(バイブル)」を自称する全ビートルズナンバー徹底解析本が出版された。

 日経BP社の「ザ・ビートルズ 全曲バイブル」(大人のロック!編、フロム・ビー責任編集)である。

 独自に開発したパソコンソフトで、ビートルズ公式録音213曲のそれぞれのレコーディング過程やサウンドを、専門家、プログラマーらが事細かに解剖してみせた。1年を要したという。ビートルズナンバーの楽譜や解説書は数多くあるが、このようにノイズに至るまで丹念にチェックした本を私は知らない。大ヒット曲からB面の無名曲まで、どの作品にも手を緩めず、愛情のまなざしを注ぐ。そんな感じである。

 一曲一曲(1)楽曲解説(2)サウンド解説(3)データ解析に基づく解説(4)作業の意図を読み解く--の項目を立てて詳述し、録音年月日、スタジオ名、エンジニア名、使用楽器、米盤と英盤の違い等々、図解や写真入りで示す。

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カラフルな構成の「ザ・ビートルズ 全曲バイブル」

 例えば、1966年11月24日から12月21日にかけ録音された「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」。ジョン・レノンの孤独な少年時代、秘密の遊び場としていたリバプールの孤児院「ストロベリー・フィールド」の心象風景がモチーフだ。ジョンの画期的な名曲である(私はこの曲でビートルズはポップグループのイメージから完全に抜け出たと思う)。本書はこの「作業の意図を読み解く」の項目で、こう書き出している。

 <この曲の編集と言うと、第7テイクと第26テイクの結合箇所に話題が集中するが、モノバージョンのエンディング(リードギターからチェロへの切り替わり)は隠れたチェックポイントだ。ここで用いられた「音が別の楽器に変化する」という発想は、約3カ月後に行われる「グッド・モーニング・グッド・モーニング」から「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(リプライズ)」へのクロスフェード、つまり「鶏の鳴き声からギター」への布石になっているとも考えられる......

 こんな具合だ。気に入りの曲、ふと聴きたくなった曲、あの独特の音はどうやって出しているのか知りたくなった曲など、流すそのつどに該当のページを繰ればよい。いっそ興趣は増すだろう。だが、これはファン向けのこまごました知識と情報を詰め込んだだけの事典ではない。まだ録音装置がシンプルだった時代に、既成概念にとらわれず、自然にこみ上げてくる歌いたい曲を好きなように、そして一生懸命に作ったビートルズとプロデューサー、レコーディング技術者らの開拓物語でもある。

 その意味で、本書の最後に編集されている「録音技術の変化と楽曲解析方法」は理解を助ける。1本のテープを分割し、別々の音を入れて同時再生するマルチトラックテープや多重録音の仕組みなど、60年代の技術がわかりやすく解説されている。

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 話は変わる。

 さいたま市の「ジョン・レノン・ミュージアム」が来場者減少のため閉館になる可能性が出てきたと伝えられている。80年12月にニューヨークで凶弾に倒れたジョンである。長い年月を経て来年は没後30年にもなるが、「新たな発見」がなくなったわけでは決してない。まだまだ十分には知られてないことがあると思う。一つはプレーヤーとしての側面だ。レコーディングの解析はこれに役立つだろう。

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ジョン・レノン・ミュージアム

 例えば、この本は、たった1日で製作した最初のアルバムの最後のナンバー「ツイスト・アンド・シャウト」のジョンらを、こんなふうに書いている。

 <1963年2月11日のセッションの最後にあと1曲録音が必要になり、土壇場で急遽(きゅうきょ)取り上げられることになった。リードボーカルのジョンはこの日風邪をひいていて、ズーブズというのど飴(あめ)をなめつつレコーディングに臨んでいた。声がつぶれる寸前にジョンは最後の力をふりしぼって上半身裸になって歌い、1テイクで決めた......

 <演奏のまとまりも抜群で、ふだんのギグで曲がこなれているせいもあるだろうが、オーバーダビングや編集は行っていない。ジョンはリッケンバッカー325、ジョージはグレッチ・デュオジェット。1分18秒あたりでミストーンがあるが、全体のテンションを考えると取るに足らないミスだ......

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東京公演前の記者会見。右からリンゴ、ジョージ、ポール、ジョン

 ギグは小さなライブハウスなどでの演奏。リッケンバッカー325はジョン愛用のギター。勢いで少々のミスも圧倒し、後で化粧もしない一発録音で決めたというのである。アナクロながら、コンピューターで音を自在に操作する今とはまさに隔世の感あり、味もある。

 そんなころのビートルズやジョンが、一番生き生きしているのだ。(専門編集委員)


<その6> ビートルズの愉悦
200911 5

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09年9月、ビートルズのリマスター盤発売イベントにファンがどっと詰めかけた(東京・渋谷)

 ビートルズの全曲リマスター盤がなかなかの売れ行きという。ワンセットのボックスを東京・神田のCDショップで品切れ寸前にかろうじて買い求め、入荷待ちで気をもむことなくすんだ。影を長く落とす秋日の街をボックス抱えて歩きながら考えた。解散してはや来年で40年(!)、よくまあ手を変え品を変え、なぜこうもビートルズは売れ続けるのか。その曲は1960年代の7年間程度、メンバーが全員20代のうちに作ったものだ。音楽の英才教育を受けたわけではないし、その血筋でもない。ろくに譜面を読んだり書けたりもしなかったという。そして、それを気にも掛けなかったに違いない。おそらく、そこが彼らの魅力の尽きせぬ源泉なのだ。

 無数のエピソードがあるが、私が特に好きなのを三つ挙げたい。

 一つ。名マネジャーとの偶然の出会い。ご存じブライアン・エプスタインは当時27歳、英国の港町リバプールで有名なレコードショップを営んでいた。ある日客からビートルズのレコードを尋ねられ、初めてそんなバンドがこの街にいることを知った。聞き過ごしていればそれっきりだったろうが、運命の女神はやはり積極的行動を起こした方にほほ笑むようだ。彼は興味を抱き、ひとつそいつを見てやろうとライブハウス「キャヴァン・クラブ」に出かけたのである。1961年11月9日のことだ。

 これはさまざまに語り伝えられている。ここはマーク・ハーツガード著『ビートルズ』(湯川れい子訳、角川春樹事務所)から引くと、生前のエプスタインはこう述懐した。

 「ステージの上の彼らは、何とも形容しがたい感じで......きちんとしたふうでもなく、清潔というわけでもなかった。演奏しながら煙草は喫うし、食べるし、喋るし、ふざけて互いに叩きあったりするし。客席に背中を向けたり、怒鳴ったり、内輪のジョークで笑ったりしていた。だが、確かにすごく盛り上がるんだ。人を惹きつける何かを放っているようだった。私は彼らに参ってしまった」

 彼は通い詰めるようになり、やがてマネジャーとなった。彼はビートルズを行儀よくさせ、ルーズで無秩序なステージはやめさせた。おそろいのスーツ姿のビートルズなんてそれまで街のファンは想像もしなかっただろうが、エプスタインはビジネスの経験を生かし、この野放図な若者たちをどう売り込み成功させるか、本気で心を砕いた。

 彼がいなければ、ビートルズはまったく違った登場の仕方をしたか、あるいはそのまま地下倉庫を改造したライブハウスで埋もれていたかもしれない。後年、ビートルズがステージをやめ、スタジオにこもって曲づくりに専念するようになるとその存在は前ほど注目されなくなった。67年に急死する。薬使用の事故といわれる。

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1969年1月、ビートルズが映画用にビル屋上でゲリラ的なライブ演奏をした「ルーフトップ・コンサート」。4人そろって人前で演奏することは以後二度となかった

 
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 さて気に入り逸話の二つ目。それはビートルズが見事にオーディションに落ちたという話である。若者たちよ、試験に一度や二度しくじったからといってしょげるんじゃない。あのビートルズも落第しているのだ。

 レコード会社で最初にビートルズに接したのはデッカだった。ロンドンでオーディションを受けることになり、1961年の大みそか、彼らは大雪の中を車で10時間かけて行った。そして元日、デッカ社のスタジオに入った。ハンター・デヴィス著『ビートルズ』(小笠原豊樹・中田耕治訳、草思社)によると、デッカのスタッフがなかなか現れないのでエプスタインは「いいかげんに扱われている」という気がしてジリジリしたという。

 いよいよ演奏の段になった。リバプールから運んできた傷だらけの古アンプをデッカの係員が見て「片づけてくれ」と言った。デッカのアンプを使い、「夕日に赤い帆」などスタンダードナンバーをやった。うまくいったと思ってリバプールで朗報を待ったが、なかなか来ない。やっと3月になって「ビートルズのレコードは出さない」という決定を知らされた。デヴィスの『ビートルズ』でエプスタインはその時のやりとりをこう語っている。

 「サウンドが気に入らないという。ギターのグループはもう流行遅れだと言われた。ぼくは、この連中はエルヴィス・プレスリー以上の大物になると信じています、と言ってやった」。その通りになるのだが、このころのビートルズはどのレコード会社にもうまく売り込めず、ジョージ・マーチンという名プロデューサーに見いだされるまで時間が必要だった。その間、彼らは腐ることなく精力的にライブを続け、地元では圧倒的な人気を得ていた。

 初期ビートルズの演奏は今聴いても新鮮だ。わかってもらえなくても、自分たちがやりたいようにロックンロールをやる。これを通したのである。落第生諸君、かくあるべし。大いに自信を持て。それにしてもビートルズを逃したレコード会社は残念だったろう。

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 三つ目。1963年11月4日。アルバムも2枚出し、イギリス国内ではトップに数えられるようになったころだ。ビートルズは、一流の芸能人たちが王室のお歴々の前で演じる「ロイヤル・バラエティー・ショー」に出演した。ロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場である。当時の映像を見ると、ジョン・レノンは最後のナンバーである3曲目の「ツイスト・アンド・シャウト」の前にちょっといたずらっぽい笑みを見せ(ちょっと迷いもあったかもしれない)、そしてマイクに向かって言った。

 「次の曲では、安い席の方々は手をたたいてください。あとの方々はご自分の宝石をチャラチャラと鳴らしてください」

 会場はどっとわき、新聞も一斉に取り上げた。こうした権威に対する風刺、皮肉はジョンの真骨頂だったし、ビートルズの特徴でもあった。それは曲作りにも表れている。

 彼らの生まれ育ったリバプールは、古来対岸のアイルランドと密接な交流があり、その血筋が多い。司馬遼太郎は『街道をゆく』シリーズの『愛蘭土紀行』(朝日新聞社)で、ビートルズの発言とアイルランド人に流れる風刺の血に触れている。アイルランド人が吐き出すウイットやユーモアはこんなふうだという。

 <......相手はしばらく考えてから痛烈な皮肉もしくは揶揄(やゆ)であることに気づく。相手としては決して大笑いできず、といって怒りもできずに、一瞬棒立ちになる>

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 来年(2010年)は「解散40周年」。またあの手この手と「ビートルズ産業」は活況を呈するのだろう。これだけ年月を経ても彼らが特定の世代の「思い出の箱」に収まらず、次々に新しい世代をとらえていく。そのことを論じれば、それだけで一つの学問分野が成立しそうだが、「そんな退屈なことしてどうするんだい。ヒマだね」と天上のジョンは皮肉るに違いない。  (専門編集委員)


ビートルズ:リマスター盤大ヒット 最新技術で音質が向上

2009925 1159分 更新:925 1651

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ザ・ビートルズのリマスター盤CDが発売され混雑するタワーレコード渋谷店=東京都渋谷区で2009年9月9日午前0時1分、長谷川直亮撮影

 ザ・ビートルズの全アルバムを高音質化したリマスター盤CD(全16商品)が9日の発売から約2週間で、計約200万枚以上を受注する記録的ヒットになっている。最新のデジタル技術で再現された迫力あるサウンドは往年の中年ファンに加え、新たな若者ファンも増やしている。【鈴木梢】

 発売されたのは、87年に最初にCD化された全14枚のアルバムと、各CDをまとめたボックス二つ。最も売れている14枚組みボックス(3万5800円)は多くの店で品切れ中。バラ売りでは「アビイ・ロード」が一番人気という。

 リマスターとは、CD制作の最終段階作業「マスタリング」をやり直すもので、原盤の音量を上げたり音質や音圧を調整する。英国で行われた今回の作業では原音の忠実な再現を目指し、プロジェクト班は主観が入らないよう7人で編成。通常なら1日1曲で進められるのに、全213曲に4年をかけた。班を指揮したアラン・ローズさんは来日時「王冠の修復作業に近い感覚だった。ビートルズ本人がいい音になったと感じてくれるのがゴール」と語ったという。

 発売元のEMIミュージック・ジャパンのマスタリングエンジニア、渡辺昭人さんは「聞き比べれば音の違いは分かる」。写真の画像解像度を上げて色鮮やかにするように、リマスター盤は情報量を高めて音の粒を細かくしているといい、「音全体が伸びて気持ちよく聞こえる。中域の音が充実し、ベースなど楽器の輪郭がはっきりした」と話す。

 愛好する音楽評論家らでつくる「ビートルズ大学」で「学長」を務める宮永正隆さんは「ポール・マッカートニーのベースが躍動しているし、ギターがまろやか」と絶賛。「ビートルズの公式な音が一新されたのは大事件です。数十年かけて聞き込んでいかなければ」と興奮気味に語る。

 購買層の中心は40代男性だが、幅広い層に売れている。EMIの二瓶晋チーフプロデューサーは「同時代で聞いていたのは団塊の60代。後追いファンが40代。若いバンドのルーツとして常に新しいファンが生まれる。ナツメロにならない唯一のアーティスト」と話す。音楽評論家の萩原健太さんは「ビートルズは実験的手法が話題になったが、音楽自体に普遍的な魅力がある。リマスター盤はそれを再認識するきっかけになる」とみる。

 バンド「ずうとるび」で活躍したタレントの山田隆夫さんは「ベートーベンのように受け継がれる音楽です」とボックスを聴くのを楽しみにしている。


ビートルズ:リマスター盤CD9日0時、世界同時発売

200999 013分 更新:99 534

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ザ・ビートルズのリマスターCDが発売され混雑するタワーレコード渋谷店=東京都渋谷区で2009年9月9日午前0時、長谷川直亮撮影

 ザ・ビートルズの全オリジナルアルバムを最新技術で高音質化させたリマスター盤CDが9日、世界同時に発売された。東京・渋谷のタワーレコード渋谷店では、ムッシュかまやつさんらをゲストにカウントダウンイベントが開かれ、9日午前0時になるとファンが次々とCDを買い求めた。

 この日発売されたのはデビューから最終までの13アルバムと未収録曲を加えた計14アルバム(各2600円、2枚組みは3700円)。CDの売れ行き不振が続く中、発売元のEMIミュージック・ジャパンによると、このCDは予約だけで100万枚を突破しているという。

 イベントでは、かまやつさんが「ビートルズで初めてロックンロールと出会い、僕のロックンロールが始まった」と思い入れを語ると、若者から年配まで約150人のファンから歓声が起こった。【油井雅和】


ビートルズ:
デビューから「アビー・ロード」までのドキュメンタリーを放送 NHK

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ドキュメンタリー番組が放送されるビートルズ

 英国のバンド「ビートルズ」の全楽曲のデジタルリマスター版が世界同時発売されることを記念したドキュメンタリー番組「よみがえるビートルズ THE BEATLES Rebirth(仮)」が6日午後5時と11日深夜0時55分から、NHK総合で放送される。

 番組は、楽曲の著作権を管理する英「アップル」社とBBCが共同制作したドキュメンタリーを元に、NHKが日本国内向けに再構成した。ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターのメンバー4人と、プロデューサーのジョージ・マーティンのインタビューと、ライブ映像で構成。62年にシングル「ラブ・ミー・ドゥー」でメジャーデビューしたころのエピソードから、最後のレコーディングとなったアルバム「アビー・ロード」までの制作過程やレコーディング秘話、音楽的な解説などが本人たちの口から語られる。メンバー同士が会話しているアビーロード・スタジオでの未公開映像やレコーディング風景も放送される。【服部美央】

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マミートーン:
ビートルズ「フォー・ノー・ワン」 マイケル抜き USEN洋楽リクエスト1位に

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マミートーンがザ・ビートルズをカバーしたアルバム収録曲が有線リクエスト1位に。雑貨店では専用ブースも設けられている

 大阪在住の主婦シンガーTAMMY(タミー)さんがボーカルを務める音楽ユニット「Mammytone(マミートーン)」が、「ビートルズ」の楽曲をカバーしたアルバム「Recipe Of BEETLES-カブトムシのレシピ-」に収録した「フォー・ノー・ワン」が、26日発表されたUSENの週間洋楽リクエストチャート(14~20日集計分)で、マイケル・ジャクソンを抜いて1位を獲得した。

 タミーさんは、過去にメジャーで活動したこともあるシンガー・ソングライターで、現在は弁当屋で働きながら、3人の子を女手一つで育てているシングルマザー。現在は音楽事務所に属さず、ギター片手に個人でライブ活動を続けている。

 「フォー・ノー・ワン」は、アルバム「リボルバー」(66年)に収録された曲で、失恋した男性に対する歌。タミーさんは、持ち前の柔らかな歌声を生かし、男性の痛手を包み込むような優しい世界観を生み出している。

 アルバムは、「デイ・トリッパー」「オール・トゥゲザー・ナウ」など11曲入りで2100円。5日に発売され、口コミで人気が広がり、CDを扱う雑貨店では特設ブースが設けられるほどで、これまでに約2万枚を出荷している。【西村綾乃】

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帰りたい:肉声再生・プレーバック 旅の終わり=玉木研二

 おれはどうしよう? おれの人生はどうなったんだ?

 大学にもどって別な勉強をしようか?

 1966(昭和41)年8月

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 この月のアメリカ旅公演がビートルズの最後のステージになった。

 中旬からシカゴ、デトロイト、クリーブランド、ワシントン……と全土を回り、最終は29日のサンフランシスコ、キャンドルスティック・パークだった。後年、野茂英雄が大リーグデビューをした野球場だ。

 64年2月のアメリカ初公演以来2年半。確かに「やめ時」であった。騒音に包まれた巨大会場の30分そこそこの演奏は粗雑で味わいもなく、レコードで発表する曲の進化とは裏腹に、ステージのバンドとしては退廃した。その夏の東京公演によく表れている。リハーサルもろくにせず、疲れて投げやりな調子になった。

 一方、ジョン・レノンの「ビートルズはキリストより人気がある」という発言が、アメリカの保守派から猛反発を受け、レコードは焼かれ、ステージは厚い警備の中だった。

 呪縛から解かれた4人はイギリスに戻ると、それぞれ創造の道を模索し、スタジオで曲づくりに打ち込んだ。これが67、68、69年の驚異的な名曲の数々に結実する。

 冒頭の言葉は、最終の公演の時、マネジャーのブライアン・エプスタインがもらしたという。ハンター・デヴィスの「ビートルズ」(草思社)から引いた。イギリスの港町の地下ライブハウスで、汗だくで演奏する4人の若者の才を見抜き、スーツを着せ、行儀よくさせて世界のステージに押し上げた男である。

 翌年夏、急死した。薬使用上の事故とされている。ジョンより6歳年長の32歳だった。(専門編集委員)

毎日新聞 2009813日 東京夕刊

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