Yamaguchi Tsutomu
二重被爆の山口彊(つとむ)さん死去


二重被爆者:山口さん、死の直前キャメロン監督らにバトン

201017 123分 更新:17 1254

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山口彊さん=長崎市内で2009年6月撮影

 【ロサンゼルス吉富裕倫】広島と長崎の両方で原爆被害に遭った「二重被爆者」の山口彊(つとむ)さん(93)が亡くなる約2週間前、長崎市の病院を訪ねていた米作家、チャールズ・ペレグリーノさん(56)が6日、毎日新聞の電話取材に応じた。自らの死期が近いことを悟った山口さんは、ペレグリーノさんとともに訪れた映画界の巨匠、ジェームズ・キャメロン監督(55)と3人で手を取り合い、「原爆が何をもたらしたか、人々に伝えるバトンを渡したい」と思いを伝えたという。

 ニューヨーク在住のペレグリーノさんは08年7月、山口さんの体験を題材にノンフィクションを書くため、自宅を訪問。その後、病状が深刻になった山口さんが、二重被爆者に関する映画化構想を抱いているキャメロン氏との面会も希望していることを知り、先月22日、新作映画「アバター」の宣伝のため訪日した同氏とともに病院を訪ねた。

 ベッドに座った山口さんは死期が近いことを悟り、「私の仕事はほぼ終わり、引き継ぐ時が来た」と述べ、広島、長崎の惨劇を二度と繰り返さないよう語り伝える仕事を2人に託し、手を握って誓い合ったという。

 「もう時間がない。今こそ学ぶべき時だ」と訴えた山口さんに、キャメロン氏は「忘れ去られた事実を本当に再現する映画になるでしょう。山口さんのバトンを引き継ぐのは名誉なこと。最善を尽くします」と製作に意欲を示したという。

 科学アドバイザーとして「アバター」や「タイタニック」でキャメロン氏に協力してきたペレグリーノさんによると、二重被爆者をテーマにした作品は「6時間の大作」になる見込み。3D劇場映画になるかミニテレビシリーズになるか、目標時期も含めて詳細は未定という。

 山口さんの体験を基にしたペレグリーノさんのノンフィクション「ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」は今月19日、米国で出版される。

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山口彊さん死去:「平和を発信、素晴らしい生き方だった」/自身も二重被爆の元同僚、沈痛

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山口さんの死去を伝える記事を読む岩永章さん=長崎市で2010年1月6日、下原知広撮影

 「電話で話した時には元気そうだったのに」--。広島、長崎で直接被爆し、二重被爆者として初めて公式認定された山口彊さん(93)が4日に死去したことについて、山口さんの元同僚で、自身も二重被爆した岩永章さん(89)=長崎市=は、沈痛な表情を浮かべた。

 岩永さんは、山口さんと三菱重工業長崎造船所の同僚だった。45年春、岩永さんは山口さんらと一緒に広島に長期出張。8月6日の原爆投下時は、爆心地から4キロ以上離れた広島の造船所にいた。「大きなマグネシウムをたいたような強い閃光(せんこう)が見えました」

 岩永さんはガラス片で両ひじを負傷。爆心地から3キロで被爆した山口さんは、左上半身に大きなやけどを負っていた。7日、2人で長崎への避難列車に乗り込んだが山口さんは元気がなく、「精神的にも肉体的にもくたびれているようで、眠っていた」という。

 9日の長崎原爆投下時、岩永さんは郷里の長崎県諫早市から列車で長崎造船所に向かう途中で、同県長与村(現長与町)にいた。その夜、列車を降りて徒歩で造船所に行く途中、長崎市内の惨状を見た。「火の海だった」。この時、岩永さんは入市被爆。山口さんは、造船所内で再び直接被爆していた。

 1945年春、岩永さんは造船所を辞め、会社勤務を経て長崎市職員となり、総務部長まで務めた。造船所を離れた後、山口さんと会うことはなかったが、2人の人生は長い時間を経て、再び交差した。山口さんが長崎市に正式な二重被爆の認定を求めた昨年、岩永さんがその証人となり、2人は電話で連絡を取った。

 岩永さん自身は「二重被爆」を公式認定してもらおうとは考えていない。しかし「2度も原爆地獄を見た者として、記録に残したいという山口さんの思いはよく分かった」。

 被爆体験講話や短歌集出版など最後まで平和の取り組みを続けた山口さん。岩永さんは「素晴らしい生き方だったと思う。これからはゆっくり休んでほしい」と語った。【下原知広】

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山口彊さん死去:「核廃絶」短歌、世界へ 英訳の米大学院生、誓う

 ◇平和の象徴、心が通じた


 広島、長崎で直接被爆し、「二重被爆者」として初の公式認定を受けた山口彊(つとむ)さん(4日死去、93歳)=長崎市=の死去の報は6日、多くの人に悲しみとなって広がった。【阿部弘賢、錦織祐一、下原知広】

 「また会おうと言って別れたのに。信じられない」。昨年6月上旬から約1カ月間、山口さんの短歌英訳のため山口さん宅に住み込んだ、米コロンビア大大学院生、チャド・ディールさん(29)=米ニューヨーク市=は言葉を失った。

 ディールさんは、山口さんが出演した記録映画「二重被爆」の英語字幕制作にも携わり、その後、山口さんが06年に国連で講演した際に米国で初めて会った。映画英訳の作業の中で山口さんの短歌に出合い、「短歌を英訳しよう」と決心した。

 山口さんは、ディールさんのため自作短歌三百数十首に解説を書き、手渡した。ディールさんは山口さんの短歌世界にさらに引き込まれ、短い言葉の奥にある山口さんの考えを聞くため長期共同生活を始めた。「原爆を投下した米国の研究者である私を、山口さんは歓迎してくれた。平和活動の偉大な師がいなくなった」

 ディールさんの胸には、山口さんから聞いた多くの言葉が刻まれている。「人間は言葉が通じなくても、心は通じる。だから、世界平和は実現できる。私とチャドさんも心が通じ合っていますよ」。その言葉を聞き、世界平和への大きな責任を感じるとともに、英訳への決意をさらに固くした。

 短歌英訳は、今年被爆65年を迎えるのに合わせ、山口さんの代表作65首を完成させた。これに山口さんの体験などを加え、一冊にし、友人らと今年中にも米国で自費出版する計画だ。

 オバマ米大統領の登場で高まる核兵器廃絶の機運。しかし、米国内では、日本のような盛り上がりはまだ感じられないという。「山口さんが気持ちを込めた短歌を米国人にも見てもらい、少しでも山口さんの念願だった核兵器廃絶の力になりたい」。力強く誓った。

 ◇体験談DVD、高校生が上映へ


 長崎県内の高校生らが核兵器廃絶を求めて署名を集める「高校生1万人署名活動」の実行委が08年、長崎、広島両市や韓国など在外被爆者計15人の体験談をビデオ撮影し、DVD「今伝えたい あの日からのメッセージ」を作製。その中に山口彊さんも入っていた。

 活動を指導する元小学校教諭、平野伸人さん(63)らによると、当時から山口さんの体調は安定せず、何度も出直した末にインタビュー。自宅の庭で数時間の撮影に応じ、「ジュースを飲みなさい」と高校生を気遣ってくれたという。

 平野さんは「淡々とした口調の中にも平和への強い思いがにじみ、みんな感動していた。あの日から『伝えなければ』という高校生たちの意欲も高まった」と振り返る。近く、山口さんのDVD上映会を企画するという。

 当時インタビューした活水女子大1年、尾田彩歌(あやか)さん(19)は「体験談は(原爆投下直後の)様子が本当に鮮明で、原爆がどれだけ恐ろしいかがよく分かった。貴重なお話を聞かせていただいた私たちが、これから伝えていかなければと改めて思いました」と話した。【錦織祐一】

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毎日新聞 201016日 西部夕刊


Survivor of both Nagasaki and Hiroshima atomic bombings passes away at 93

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Tsutomu Yamaguchi in Nagasaki, April 30, 2009. (Mainichi)

Survivor of both the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki Tsutomu Yamaguchi passed away in a Nagasaki hospital early Monday morning. He was 93.

Yamaguchi, the first person to be confirmed as a double atomic bombing survivor, had been battling stomach cancer. A private funeral attended by his close relatives has been held.

A design engineer at the Mitsubishi Heavy Industries Nagasaki Shipyard during World War II, on Aug. 6, 1945 Yamaguchi was in Hiroshima on business just three kilometers from ground zero when the bomb went off. He returned to Nagasaki by train on Aug. 8, and was once more three kilometers from the nuclear detonation that destroyed the city the following day. Yamaguchi lost his hearing in his left ear in the blasts, and was afflicted with acute leukemia, cataracts and other bomb-related illnesses in subsequent years.

Aiming to communicate his thoughts on nuclear disarmament and peace, Yamaguchi self-published a volume of tanka poetry entitled "Ningen Ikada" in 2002. He began serious efforts to share his nuclear bombing experiences in 2005, after his son -- six months old at the time of the Nagasaki bombing -- died at the age of 59. In August 2006, he visited the United Nations in New York to show a documentary film he appeared in and appeal for the abolition of nuclear weapons.

In December last year, Yamaguchi also met with "Avatar" director James Cameron to discuss a possible film about nuclear arms, saying, "I think it's (Cameron's) destiny to make a film (about nuclear weapons)."

Yamaguchi was officially recognized as a double bombing victim in March 2009.

In 2005, the Hiroshima National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims conducted a study of some 100,000 first person accounts of the bombings and the records of some 17,000 of the dead and found nine individuals who were victims of both the Hiroshima and Nagasaki bombs. None of the nine have been officially recognized.

Click here for the original Japanese story

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(Mainichi Japan) January 6, 2010


山口彊さん死去:「核廃絶のため生きた」 病床でも平和発信

 もう二度と被爆者をつくらないで--。4日に93歳で死去した二重被爆者の山口彊(つとむ)さん=長崎市=は、死の1カ月前まで病室で海外メディアの取材を受けるなど、平和のメッセージを発信し続けた。家族のきずなを何よりも大切にしていた山口さん。最期はその家族に見守られ、穏やかに旅立った。オバマ米大統領の登場に「今が核廃絶のチャンス」と希望を見いだし、期待を寄せた山口さんに「核なき世界」の実現は間に合わなかった。

 趣味の短歌を通じて、非核や平和の思いを伝えようと、02年には短歌集「人間筏(にんげんいかだ)」を自費出版。05年、生後6カ月で被爆した次男をがんのため59歳で亡くしたことをきっかけに、それまで以上に積極的に被爆体験を語り始めるなど、活動を展開していた。

 06年8月には、米ニューヨークの国連本部を訪れ、自身が出演した記録映画「二重被爆」を上映し、核兵器廃絶をアピールした。

 最晩年になってから積極的に被爆体験を語り始めた山口さんは昨年6月下旬にも長崎市内で講話をした。当時、集まった若者らに「何か聞きたいことはありませんか。私が話せるのもこれが最後ですから」と何度も問いかけた。その言葉通り、講話はそれが最後となった。

 8月以降、入院を繰り返し、12月ごろには見る見るやせ衰え、以前のような張りのある声は出なくなっていた。被爆体験の辛苦と平和への願いを込め続けた短歌は入院中、亡くなった多くの被爆者と、自身の命のともしびを見据えた内容になった。

 <世に在(あ)りて生命享(う)けしもの原爆に一瞬に消え神の御許(みもと)に>

 12月22日には、来日中の米国映画界の巨匠、ジェームズ・キャメロン監督が山口さんの病室を訪問。原爆をテーマにした映画の構想を聞いた山口さんは英語で「私の役目は終わった。後はあなたに託したい」と語り、固く手を握ったという。

 「彼は個性があっていい。映画を作るのは(彼らの)宿命です」。キャメロン監督を見送った後、山口さんはそう語った。

 「自分の幸福は家族」と口癖のように話していた山口さん。今月3日には家族の手を握り、「みんなで力を合わせて、ひ孫を育てていくように」と語り、翌4日早朝、静かに息を引き取ったという。

 山口さんは、8月6日と9日のことを「僕の命日」と言い、「後の人生はおまけ」「核兵器廃絶のために生かされている」との思いを持っていた。「核兵器のない世界」を訴えるオバマ大統領には「彼はアメリカの良心」といつも強い期待を寄せていた。プラハ演説後の昨年5月、大統領に「決意を信じたい」との手紙を送り、核廃絶の歩みを進めてくれることを願った。【阿部弘賢】

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毎日新聞 201016日 大阪朝刊


山口彊さん死去:二重被爆者93歳 非核・平和訴え

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山口彊さん=長崎市内で2009年4月30日、山下恭二撮影

 広島、長崎それぞれで直接被爆し、「二重被爆者」として初の公式認定を受けた山口彊(やまぐち・つとむ)さん(長崎市在住)が4日午前5時38分、胃がんのため長崎市の病院で死去した。93歳だった。密葬は近親者で済ませた。

 三菱重工業長崎造船所の設計技師だった山口さんは1945年8月6日、出張先の広島市(爆心地から3キロ地点)で被爆。列車で8日に長崎へ戻り、9日には再び爆心地から3キロ地点で被爆した。2回の被爆で左耳の聴力を失い、急性白血病や白内障などの原爆後遺症にも苦しめられた。

 非核や平和の思いを伝えようと、02年には短歌集「人間筏(にんげんいかだ)」を自費出版。05年、生後6カ月で被爆した次男をがんのため59歳で亡くしたことをきっかけに、それまで以上に積極的に被爆体験を語り始めた。06年8月には、米ニューヨークの国連本部を訪れ、自身が出演した記録映画「二重被爆」を上映し、核兵器廃絶をアピール。09年3月、長崎市から広島での被爆事実の認定を受けた。

 二重被爆者については、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が05年、被爆者の体験記約10万点と死没者約1万7000人を調べ、広島、長崎の両方で直接被爆した記録が9件見つかったが、確定はしていない。【阿部弘賢】

英訳

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毎日新聞 201016日 230分(最終更新 16日 230分)





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