Hakenmura 08-09
派遣村アクション「08年越し派遣村」


今週の本棚・新刊:
『派遣村--国を動かした6日間』=年越し派遣村実行委員会・編

 (毎日新聞社・1575円)

 大(おお)晦日(みそか)をはさむ六日間、東京日比谷公園に存在した年越し派遣村。押し寄せる不況の下で、職を失い生活を失い、住むところを失った派遣労働者の実態が、目に見える形で日本中に明らかにされた。そして、多くの人たちが心を動かされた。一六〇〇人ものボランティアが参集し、五五〇〇万円を超えるカンパが集まったという。

 派遣村の誕生が、これからの労働行政に、確かな一撃を与えた。この運動に関(かか)わった一六人が、こもごもにその熱い想(おも)いを語る。こんな厳しい状況の中でも、絶望を退ける連帯の手応えを生み出した六日間であった。宇都宮健児・湯浅誠編『派遣村--何が問われているのか』(岩波書店・1260円)をも併せ読んでほしい。(達)

毎日新聞 2009419日 東京朝刊


浜松派遣村:ブラジル人ら窮状訴え 108世帯が相談

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派遣村で支給された食事を受け取る離職者ら=浜松市中区の東ふれあい公園で2009年3月29日午後0時10分、瀬上順敬撮影

 住居や仕事を失った人からの相談を受ける「トドムンド浜松派遣村」が29日、浜松市で開設された。市内に住むブラジル人も多く訪れることが予測され、ポルトガル語で「みんな」を意味する「トドムンド」と名付け、ボランティアの通訳ら15人が外国人に対応した。

 「派遣切り」などに苦しむ人を支援しようと、司法書士やボランティア関係者が企画。この日はブラジル人など外国人55世帯と日本人53世帯が相談のため訪れ、「子供が3人もいるのに所持金が100円しかない」「仕事がしたい」と泣きながら話すなど、深刻な状況を訴えた。炊き出しもしたが、会場となった公園の使用規制のためテントを張った宿泊などはできない。

 浜松市はこの日、日曜日にもかかわらず生活保護の受付窓口を開き、約40件を受理した。また、失職などで住居を失い路上生活を余儀なくされた人たちも、市社会福祉協議会から貸し付けを受けるなどして全員が住む場所を確保したという。

 榛葉隆雄村長は「休日も市役所の窓口を開かせたことや外国人登録者でも生活保護申請を受理させることができたなど成果があった」と話した。派遣村は30日も同市中区中央1の東ふれあい公園で、午前9時~午後3時の間に開かれる。【瀬上順敬】

毎日新聞 2009年3月29日 21時13分


派遣村:
仙台など全国9カ所で3月実施

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「年越し派遣村」閉村の朝、休憩する人たち=東京・日比谷公園で2009年1月5日、武市公孝撮影

 年末年始に東京・日比谷公園で行われた失職者支援の「年越し派遣村」と同様の取り組みが、3月、全国9カ所以上で計画されている。各地で準備を進める労働団体などは27日、厚生労働省を訪れ、シェルター(緊急避難所)の増・開設や生活保護の積極活用を求める要望書を舛添要一厚労相あてに提出した。

 開催場所は、仙台▽さいたま▽浜松▽愛知(2カ所)▽京都▽大阪▽岐阜▽滋賀--など。東京は検討中。年度末で経済環境が悪化するとみられる3月中旬の土日などに宿泊を伴わない炊き出しと労働、住居、生活に関連する総合相談の実施を検討している。

 仙台市では、反貧困みやぎネットワークが2月から独自にシェルターを準備。日系人など外国人労働者の多い浜松市や豊田市などでは通訳をつけて相談を手厚くするなど各地で独自の取り組みを企画している。

 大阪市で企画する小久保哲郎弁護士は「ひどい雇用状況に各地で人々が立ち上がった。共同で問題に対処し、できるかぎりのことをやりたい」と話した。

 主な連絡先は以下の通り。仙台(022・711・6225)▽さいたま(048・793・5160)▽浜松(054・636・8611)▽愛知・三河(052・916・5080)、愛知・保見ケ丘(0565・48・1108)▽大阪(06・6361・1143)▽岐阜(058・264・7350)▽滋賀(077・522・2118)。【東海林智】

毎日新聞 2009年2月27日 19時08分


1日派遣村:
100人集う 失業ブラジル人ら励ます--愛知・豊田の団地

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ボランティアから食糧を受け取る外国人たち=愛知県豊田市で21日午後6時50分、竹内幹撮影

 日系ブラジル人が住民の約半数を占める愛知県豊田市の保見団地で、「保見ケ丘1日派遣村」が21日、開催された。不況で解雇され寮を追い出されたブラジル人の元派遣社員と家族ら約100人が集まり、「皆で乗り越えていこう」と励まし合っていた。

 主催したのは保見地区で外国人を支援するNPO「保見ケ丘ラテンアメリカセンター」(代表=野元弘幸・首都大学東京准教授)。住宅問題や子供の教育問題の深刻さを訴えるため、東京での「年越し派遣村」にならって企画した。

 1週間で米4トン、卵4000個などの支援物資や寄付金が集まり、会場では、ブラジル風のスープなどが振る舞われ、課題や解決策などを話し合った。

 保見団地の県営住宅には、「外国人住民が急増すると自治会運営が難しくなる」との自治会側の意向で入居制限があり、1350戸のうち約340戸が空室になっている。開村式のあいさつで野元代表は「家がない人に空室を開放するよう県に対応を求めたい」と訴えた。【秋山信一】

毎日新聞 2009年2月22日 中部朝刊


一筆入魂:
[248]日比谷・派遣村の湯浅誠氏に押された麻生政権

 湯浅誠氏──年末年始の東京・日比谷公園で展開された職と住む場所のない非正規派遣労働者たちに“派遣村”を開設した中心的リーダーの一人だ。NPO法人・自立生活サポートセンター「もやい」の事務局長であり、反貧困ネットワークの中心的存在でもある。

 年末に派遣切りされた人々は、次の仕事先が見つからず社員寮も追い出され、行き場所、食事もままならないで年越しを迎えつつあった。そんな時、東京のど真ん中、日比谷公園にテント村をつくり炊き出しサービスなどもして支援活動を行ったから、ニュースの少ないメディアにとっては格好の対象となった。年末28日から1月5日まで、今年は休暇が長かったこともあってテント村と派遣問題は、連日全国に報道され、一挙に日本の社会問題の中心になった。さらに湯浅氏は一度会ったきりの自民党・大村秀章議員や駆けつけた民主、社民、共産党らの議員にも政府や地方の公共施設の提供を訴えたことから、最初は拒否していた厚労省や東京都も支援することになる。

 まさに湯浅氏らの行動が先手、先手をとりメディアをにぎわせて緊急の社会問題に浮上させることに成功したといえよう。この間に麻生政権の支持率はまたも下落、一部では10%台まで落ち込んだ。日比谷・派遣村の社会的印象も影響したのではないか。逆に政府が先手を打って、ムダ使い予算といわれた約5000億円のホンの一部でも使って助けていれば、麻生支持率は逆に“あたたかい保守”の看板の名をあげたかもしれない。

 湯浅氏は39歳。労働組合の幹部でもないし学生運動の活動家だったわけでもない。東大大学院法学部政治学研究科の博士課程に在学していたころ、路上生活者の支援活動にかかわり始め、2001年から生活相談と連帯保証人を引き受ける組織「もやい」を設立し、いわゆる“反貧困”にかかわったという。

 湯浅氏自身は東京のサラリーマン家庭に育ったが「とにかく会社人間にはなりたくなかった」というから学者を目ざしていたのか。しかし貧困救済にかかわり始めて非正規社員が全体の3分の1に及ぶことを知り、現代日本の社会が失業保険、国民健康医療保険料の長期滞納者、無年金者、生活保護制度手続きを知らない人々などがあまりにも多いことに驚く。「このままでは一度落ち込むと日本は最下層までそのまま落ち込む“スベリ台社会”だ」と気づき、社会の“修繕屋”を目ざし始めたという。風貌は活動家スタイルだが礼儀正しい知識人という印象だ。過去に見慣れている労働幹部、過激派闘士のイメージとは違う、新しい市民活動家の登場なのかもしれない。

 日比谷公園には「もやい」のほかさまざまな障害者団体、弱者支援グループ、自立ボランティア組織が集結し、反貧困運動の結節点にもなっていた。今後は「反貧困の異議申し立てとそのネットワークづくりを通じて弱者、貧困者にとって穴だらけとなったセーフティネットをしっかり築きたい」と述べている。[財界2月10日号(1月27日発売)]

2009年2月4日

嶌 信彦(しま・のぶひこ)
 1942年生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業。67年毎日新聞入社。経済部、ワシントン特派員を経て、87年に退社、フリーランスのジャーナリストとなる。現在、TBSテレビ「朝ズバッ!」(木曜5時30分)BS-i「榊原・嶌のグローバルナビ」(土曜8時30分)TBSラジオ「嶌信彦のエネルギッシュトーク」(日曜23時)「ニュースズームアップ」(水曜7時)のレギュラーほか、「ニュース23」などにも出演。「フォーブス日本版」「財界」に連載中。
 白鴎大学経営学部教授、慶応大学メディアコム講師を兼任。
 主な著書は「ニュースキャスターたちの24時間」(講談社α文庫)、「自分を活かす構想力」(小学館文庫)、「首脳外交――先進国サミットの裏面史」(文春新書)、「一筆入魂」(財界研究所)、「儲かる感性」(小学館)など。
 NPO法人「日本ウズベキスタン協会(03-3593-1400)」会長も兼務。入会金2000円、年会費5000円。
日本ウズベキスタン協会のサイトはhttp://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/index.html
 Eメールはjp-uzbeku@nifty.com


官邸動かした派遣村(その1) 与野党超え、電話リレー

 ◇人があふれている--異例の講堂開放

 今月2日夜、厚生労働省は東京・日比谷公園の「年越し派遣村」に集まった失業者向けに異例の講堂開放に踏み切った。失職と同時に人間の生存基盤までも脅かす経済危機の深刻さが、具体的な姿となって都心に表れ、与野党の議員と政府を突き動かした。

 派遣村の湯浅誠村長(39)=NPO「自立生活サポートセンターもやい」事務局長=は焦っていた。入村者の数が予想を上回り、用意したテントからあふれ始めたからだ。

 2日朝、隣接する厚労省に出向き、ロビーの使用許可などを文書で求めたが、正月休みで応対できる職員がいなかった。湯浅氏の電話作戦が始まった。

 副厚労相の大村秀章氏は、地元・愛知県での新年会回りを終えた午後1時ごろに電話を受けた。「100人以上オーバーしています。夜は気温が下がるので何とかしてほしい」。2人は年末にテレビの討論番組で同席し、互いの連絡先を教え合っていた。

 「分かった。今から東京に行く」と大村氏は新幹線に乗った。

 民主党の菅直人代表代行は、同党の山井和則衆院議員経由で要請を受けた。京都にいた山井氏は「今晩にはテントが足りなくなる」と湯浅氏から聞き、党緊急雇用対策本部長の菅氏につないだ。

 菅氏は舛添要一厚労相に電話で「今晩が問題なので早く動いた方がいい」と伝えると、午後1時半に東京・吉祥寺の自宅を出て日比谷に向かった。車中で首相官邸を動かす必要があると考え、定期的に会談している自民党の加藤紘一元幹事長を頼った。「官房長官に話をしたいので仲立ちをお願いしたい」

 加藤氏は河村建夫官房長官に「野党が後ろにいると思わないで話を聞いた方がいい」と進言し、河村氏は「政府としてもできる限りのことをする」と菅氏に電話で伝えた。

 厚労省に到着した大村氏は、夕闇が迫る中、幹部職員らと対策を協議していた。大谷泰夫官房長らは「正月休みは今日で終わりだ」と三々五々集まった。

 「生活困窮者への対応は基本的に自治体の仕事です。中央政府の施設を宿泊に提供したことは戦後の混乱期もなかったはずです」。官僚たちは難色を示したが、適当な受け入れ施設はいまだに見つかっていなかった。

 大村氏は「これで麻生政権をつぶしたと言われたらどうするんだ。万策尽きたから開けるぞ」と宣言し、講堂の開放を決めた。

 午後6時半ごろ、湯浅氏の携帯電話が鳴った。「私の判断で講堂を開けます」。大村氏の声だった。

毎日新聞 2009年1月12日 東京朝刊


官邸動かした派遣村(その2止) 「すぐやれ!」叫ぶ村民

 ◇2009年1月、東京・日比谷公園の年越し派遣村に500人
 ◇世論を意識、議員奔走

 野党の議員たちが相次いで駆けつけた2日午後、東京・日比谷公園の「年越し派遣村」は寝床のない失業者と支援のボランティアであふれ返っていた。

 民主党雇用対策本部役員の高山智司衆院議員は、菅直人代表代行の指示で現場に駆けつけた。「正直言って最初はイベントくらいの感覚で行ったら、全然違った。これは大変だと思った」という。

 テントだけでなく、炊き出しの鍋や釜も足りなかった。合流した菅氏と周辺のレストランなどに調理場の提供を頼もうとしたが、正月休みで責任者がつかまらない。民主党本部ビルでの受け入れも、テナントとして入居しているため断念せざるを得なかった。

 厚生労働省で対策を練っていた大村秀章副厚労相は午後5時半ごろ、千代田区の石川雅己区長に電話で支援を頼んだ。しかし、「正月休みに急に言われても対応できない」。派遣村からあふれた人たちが野党議員とともに厚労省前でシュプレヒコールをあげ、テレビで放映される事態だけは避けたかった。

 同じころ、菅氏は隣接する中央区の矢田美英区長の携帯電話を鳴らした。「区長選で民主党も支援していたはずだ」と思い出した。「使ってない学校とかで受け入れられませんか」。矢田氏は「検討して部長に返事させます」と前向きだった。

 首相官邸サイドも独自に動いていた。

 河村建夫官房長官の秘書官は2日から日比谷公園に行き、現場の状況を把握していた。河村氏は同日、旧知のよしみでコンビニ大手「ローソン」の新浪(にいなみ)剛史社長に電話を入れ、食料の提供を頼んだ。「1000個か2000個のおにぎりだったら何とかなる」という答えが返ってきた。

 塩谷立・文部科学相は河村氏の指示で千代田区内に学校の空き施設がないか探したものの、回答は「難しい」。このため、河村氏は菅氏とは別に、矢田中央区長に直接電話で協力を求めた。

 「今回の件は一種の災害だと思っている。協力をお願いしたい」。すでに施設の選定に入っていた区長は協力を約束した。河村氏は自民党東京都連会長を務める石原伸晃幹事長代理にも「東京都の知事部局を動かしてほしい」と要請した。

 3日夕、東京・神山町にある麻生太郎首相の私邸。河村氏から派遣村について報告を受けた首相は「これからも支援を徹底してやってくれ」と指示した。

 支持率急落にあえぐ麻生内閣にとって、派遣村をめぐって対応を間違えれば致命傷になりかねなかった。首相周辺は「通常国会の召集が5日に迫っていたことと、マスコミの関心が高かったことが、異例の判断の理由だ」と打ち明けた。

 ◇国会では党略に縛られ

 4日午後3時半過ぎ、日比谷公園内で約400人の「村民集会」が開かれた。

 講堂の使用期限が5日朝に迫っていた。村民のいらだちが募る中で、野党各党の幹部たちが集会に参加した。

 菅氏は「何年後かには、この活動が日本の雇用、労働問題の大きな転機になったと言われることは間違いない」と派遣村の意義を強調したが、言い終わらないうちに「すぐやれ! すぐ必要なんだよ!」とやじが飛んだ。

 共産党の志位和夫委員長は「与党を巻き込んで派遣切り防止のための緊急の立法措置が必要だ」と主張。拍手が起きた。社民党の福島瑞穂党首は「派遣法の抜本改正を実現する通常国会にしよう」と呼びかけた。最後に新党大地の鈴木宗男代表が「雇用と宿舎を確保するための国会決議を出そうじゃありませんか」と提案すると、熱気に押されるようにその場で全野党幹部による文案作りが始まった。

 決議の原案には「このままでは路上での死亡者が出る」とのくだりがあった。しかし、自民、民主両党の調整過程で削除され、7日の参院本会議で全会一致の採択となった。現場では部分的に協力し合った与野党も、舞台を国会に移すと再び党略に縛られた。

 厚労省の調査では、雇い止めなどで職を失う非正規労働者は3月末までに約8万5000人に上る。社員寮など住居も同時に失うのは、状況を把握できた3万5208人のうち2157人だ。

 5日以降、東京都内4カ所の施設に分散していた派遣村の失業者約500人は、12日から2カ所の旅館に移動する。村の実行委員会は生活保護の受給手続きが進めば、アパートなどに入居できる人が増えるとみている。ただ、派遣村を必要とする日本の雇用環境は何も変わっていない。

 舛添要一厚労相は5日の記者会見で「個人的には」と断ったうえで、04年に解禁された製造現場への労働者派遣を再び禁止すべきではないかと問題提起した。ただ与党内では「今禁止したら、雇用切り捨ての口実になる」「企業にとっては雇用の柔軟性も大事だ」などと否定的だ。

 派遣村の湯浅誠村長は「企業はまさにこういう時のために非正規労働者を増やしてきたのだから、自浄作用は期待できない。派遣村のモデルを全国に広げたい」と話している。

    ◇

 堀井恵里子、田中成之、佐藤丈一、坂口裕彦、田所柳子、高本耕太が担当しました。

毎日新聞 2009年1月12日 東京朝刊
NPO IDO-Shien Forum