Makoto Yuasa
時代を駆ける/湯浅誠


時代を駆ける:湯浅誠/5止 活動の意義、広く伝えたい
 ◇MAKOTO YUASA

 <03年に大学院をやめたころは今のように著書の印税や講演料収入もなく、月収数万円で生活していた>

 大学院時代は、奨学金頼みの生活でした。多少の蓄えはありましたが、退学すれば、そのお金が入ってこなくなります。路上で生活する人の支援活動をして食えるようになっていくか、塾の先生でもやって生活を安定させた上で活動するかで迷っていました。

 でも、路上で暮らしながら活動している仲間は、炊き出しに行ったり、段ボールを集めたり、それなりに忙しいのに、自分の時間を犠牲にしているんです。だから、自分だけ収入を確保して一緒に活動するのは、どうしても居心地の悪さが残ります。それで、活動に専念することにしました。

 03年に、職や住まいを失った人たちと一緒に引っ越しや片づけの仕事を請け負う「便利屋」を始めました。ともに汗を流し、自分もみんなも収入が増える。そんなに稼げたわけではありませんが、すっきりしました。

 <東大在学中の90年秋、湾岸戦争前に初めてデモに参加、その後イラク復興支援や外国人労働者支援に携わった。路上での活動の輪に加わったのは95年だった>

 最初は右も左も分からず、野宿者支援をしている先輩について行ってただけでした。やらなきゃという意識はあるけど、実際はよく分からなかった。でも、通ってるうちに、路上の人とだんだん人間関係ができていくんですよね。それで、つながってるっていう感じで。あの人どうしてるかなって気になってくるし、病気になったって聞けば、どうしようかって相談に乗るようになる。そうやって「はまっていく」中で、自分なりのホームレスに関する問題意識が形成されていって。そういうのが面白かった。

 信頼されていないと人が集まらないので、炊き出しもできません。だから、最初はこっちから食べ物を持って回りました。重かった鍋が配って歩くうちにだんだん軽くなっていくじゃないですか。帰るころになると、ああよかった、軽くなった、みたいな感じでした。

 <社会と対立する立場にいるという意識が、活動を続けるうちに変わった>

 路上の活動を始めた当時は、高田馬場(東京都新宿区)で雑炊を作って、渋谷まで山手線で運んでいました。ちゃぷちゃぷするから、学校の給食室にあるような「寸胴(ずんどう)鍋」に入れて、ガムテープで目張りして。ちょうど、地下鉄サリン事件があった年で、電車に乗ると、さーっと人が引いていくんです。こいつら何を持って来たんだっていう感じで。当時の私は「反社会的」でしたから、「なんだ」と見返してました。

 あのころは、社会の外側に身を置いている感じでした。だから、社会に対して、こんな問題があるのになんで平然としているんだという抵抗感があったと思います。

 でも、年月の経過とともに、ホームレスの人と同じように労働市場からはじかれ、福祉からこぼれ落ちる人が増えていったんです。社会の「内」と「外」がつながっている感覚です。

 活動仲間だけでまとまって、そこで止まっちゃいけない。もっと分かってもらわなきゃ、社会は変わりようがない。現場の頑張りを生かすためにも、活動の意義を社会に伝えていく必要がある。そこに自分の役割があるのかもしれません。

 <今春、活動家志望の若者を集めた特別講座「活動家一丁あがり!」を開設した。活動家のマイナスイメージを一掃することが生涯の夢だという>

 海外で「活動家」と名乗るのは、普通の自己紹介です。でも、日本はその言葉の評判がやたら悪い。内ゲバとか、学生運動の負の遺産みたいなのがあって、どこで爆弾作ってるんですかっていう感じですね。独善的で了見が狭いというイメージもあるでしょう。

 仲間の中にも、活動家と呼ばれることを嫌う人がいます。それは、日本の社会運動が低調なことと、つながりがあると思うんです。

 集会やデモがいろいろ行われているのが当たり前という感覚が広がっていけばいい。時間はかかるでしょうが、活動をしていることをてらいなく言える社会にしたい。それをライフワークにしていきたいと思っています。=湯浅さんの項おわり

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 聞き手・木戸哲/「時代を駆ける」は22日から料理家・栗原はるみさんのシリーズを掲載します。

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 ■人物略歴
 ◇ゆあさ・まこと

 NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」(01年設立)事務局長。東京都生まれ。東京大大学院在学中から渋谷で野宿者支援に携わる。08年末~年明けの「年越し派遣村」村長も務めた。40歳。

毎日新聞 2009617日 東京朝刊


時代を駆ける:湯浅誠/4 学者あきらめ、東大を去る
 ◇MAKOTO YUASA

 <政治学者を目指して96年に東大大学院に進んだが、父正治さんが病に倒れた>

 博士課程の2年目まで、研究と路上での活動を両立できていたと思います。ところが、99年の暮れに、父にがんが見つかって、年明けに大手術をしました。当時、東京の東大和にあった実家を出て、練馬に住んでいたんですが、呼び戻されて母(尚子さん)のサポートをすることになったんです。

 勉強と路上での活動と母のサポートの三つは、さすがにできません。活動には仲間がいるし、たまに行くと路上にいる人も「久しぶりじゃねえか。もうちょっと顔出せよ」と声を掛けてくれるから、やめようとは思いませんでした。でも、研究は基本的に1人だから、どうしても後回しになります。01年に父が亡くなった後も、大学からはなんとなく足が遠のいてしまいました。

 <大学院をやめることになった。そのときの恩師の言葉が忘れられない>

 03年に博士論文は書けないとあきらめて大学院をやめることになりました。最後に指導教官から「君は愛されない性格だから、気をつけなさい」と言われたんです。自分の後継者になるかもしれない院生から突然「あきらめます」と言われれば、不快でしょうね。

 やっぱり、一つ一つ丁寧に相談しながら進めることが苦手なのかな。先に体が動いちゃうっていうか、決めてから言うようなところがあるんで。生活に困窮して相談に来る人の中に、報告、連絡、相談が苦手な人がいます。それが原因でつまずいた人を見ると、分かるような気がするんです。僕も「報連相」が苦手なんですっていう感じです。

 <高校生のころ、評論家の吉本隆明さんや柄谷行人さんの本を読みあさり、次第に批判的な視点で社会を見るようになった。大学に行かないと宣言したが、父の一言で考えを変え、目指したのが東大だった>

 早熟な方だったかもしれませんね。ただ、当時は新しい知識を取り込めるのが格好いいという感じでした。高3の秋に「大学には行かない」と言い出したことがあるんです。受験勉強のプレッシャーに疲れていた面もありますが、「学歴社会はおかしい」と青臭いことを言って。

 でも、新聞記者だった父に「大学に入らないでそんなことを言っても、負け犬の遠ぼえにしか聞こえないぞ。おかしいというなら、東大に入ってから言いなさい」と簡単に言い負かされました。そう言われて、ころっと変わって勉強して。数学がボロボロで、模擬試験で5点とか取ったこともありますが、1年浪人した末に合格しました。

 <エリートが集う東大法学部時代。市民運動に熱中し、なかなか勉強には熱が入らなかった>

 官僚になった同級生がいるようですが、名前も顔も覚えていません。児童養護施設のボランティアや市民運動にのめりこんで、大学にほとんど行ってなかったんです。3年の時に出席した授業は1コマだけ。それも、先生が何を話しているのか分からなくて、途中で出て来ちゃいました。

 1、2年のころは映画もよく見ていました。主にヨーロッパの作品です。1920年代の映画をオールナイトで5本見たりして。あのころは、情報誌の「ぴあ」が愛読書の一つでした。

 <入学5年目で一念発起し、一時的に市民運動から離れた>

 ずっと、人の役に立つことをしたいと考えていました。小学生のころ作文に書いた将来の夢は医者やジャーナリストです。大学に入った時には、人に雇われず、言いたいことを言える職業に就きたいと一丁前に思っていました。学者か弁護士かと考えていたんですが、法律はちょっときついなと思って。大学5年の初夏に大学院に行って学者になろうと決めました。

 でも、成績は「可」ばかりで、教授に「そんなんで大学の先生になれるわけないだろ」と言われて。その後は、勉強に専念して「優」を取り尽くしました。

 実は活動でも、まったく同じことを続けているわけではありません。瞬発力はある方だと思いますが、長く続けるのは苦手ですね。

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 聞き手・木戸哲/「時代を駆ける」は月~水曜日掲載です。

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 ■人物略歴
 ◇ゆあさ・まこと

 NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」(01年設立)事務局長。東京都生まれ。東京大大学院在学中から渋谷で野宿者支援に携わる。08年末~年明けの「年越し派遣村」村長も務めた。40歳。

毎日新聞 2009616日 東京朝刊


時代を駆ける:湯浅誠/3 障害者の兄との生活、原点
 ◇MAKOTO YUASA

 <3歳年上の兄郁夫さんは、進行性の筋萎縮(いしゅく)症を患う重度障害者。幼いころ、兄の車いすを押しながら、周囲に特別な目で見られていると感じていた>

 東京の小平に住んでいた小学生のころ、歩いて7~8分の養護学校まで兄を迎えに行き、車いすを押して帰ることがありました。大通りを通れば1回曲がるだけで家の前に着くんですが、兄は平屋の公営住宅の間を抜ける、くねくねした道をあえて選ぶんです。

 3年か4年生の時、兄の希望を聞かずに大通りを選んでしまい、口論になった記憶があります。本来は介助者がそんなことをしてはいけないんでしょうが、兄に対して「もっと堂々とすればいいじゃねえか」と反発していたんです。家に帰ると、兄は母に「もう誠に送り迎えしてほしくない」と訴えていたように思います。兄にすれば「なんでオレの言うことを聞かないんだ」という気持ちですよね。

 通りすがりに、じろじろ見られていることには気付いていました。今なら、社会を変えようと考えますが、子供だからそんなことも分からず、兄と衝突してしまったんです。

 <兄が障害者だったからこそ経験できたことが、その後の人生に影響を与えている>

 物心ついた時から、家にはいつも、兄のためにボランティアの人たちが来ていて、兄弟で一緒に遊んでもらっていました。普通の子供は学校の同級生との付き合いが中心になりますが、私はいろいろな人に接していたんです。その経験は、自身の人生にプラスになっていると思います。

 でも、割を食ったと感じたこともあります。5年生になるとアニメの「機動戦士ガンダム」がはやり、毎日午後5時半からテレビを見るのを楽しみにしていました。そのころ、兄が塾通いを始めたんです。授業は午後6時から。その15分前、ガンダムの合間のCMに入った時に家を出ないと遅刻です。だから、兄を塾に送って行く日はテレビを最後まで見ることができませんでした。あの時だけは、むちゃ恨みましたね。

 <母尚子さんは「手のかからない子で、兄と支え合って勝手に育った」と振り返る。無鉄砲に思える行動を止めることもなかった>

 兄弟げんかをすると、普通は兄貴が責められると思うんですが、うちで怒られるのは、いつも私でした。だから、泣きわめけばあやしてもらえるという感覚は早くから捨てていたように思います。母ちゃんが「勝手に育った」と言うのは、そういう意味じゃないですかね。

 両親がよく許してくれたと思いますが、中2で京都まで一人旅をしました。その時、自転車で旅をしていた大学生のグループに可愛がってもらい、渡月橋のたもとの公園に張ったテントに一晩泊めてもらったんです。あれが、初めての「野宿」です。高2の夏には、東京から九州の小倉まで自転車で行きました。途中で出会った人の家に泊めてもらったりして。距離は1300キロほどありましたが、楽しい思い出です。

 強盗に襲われて、怖い思いもしました。大学1年の夏休みに中南米を1人で旅行した時、コスタリカの海岸沿いの道を歩いていて、いきなり後ろから突き飛ばされたんです。相手は5~6人の若い男で、石や棒を手に「金を出せ」と。さすがに殺されるかと思いましたね。

 <大学に入ると、東京都杉並区の児童養護施設「杉並学園」で勉強を教えるボランティアを始めた>

 子供のころお世話になった経験から、自分も大学生になったら、恩返しをしようと決めていました。ボランティアセンターで、たまたま紹介されたのが杉並学園です。

 冒険が好きで、探検部に入ろうと思ったこともあるんですが、結局、学園でのボランティアが楽しくて、2年近く、はまりました。学園には、他の大学の学生だけでなく、主婦や元プロボクサーまで、いろんな仲間がいました。あのころから、いろいろな人が集まる場所が好きだったんです。やっぱり、子供のころから年上の人たちに接していたせいかもしれませんね。

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 聞き手・木戸哲/「時代を駆ける」次回は16日掲載です。

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 ■人物略歴
 ◇ゆあさ・まこと

 NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」(01年設立)事務局長。東京都生まれ。東京大大学院在学中から渋谷で野宿者支援に携わる。08年末~年明けの「年越し派遣村」村長も務めた。40歳。

毎日新聞 2009610日 東京朝刊


時代を駆ける:湯浅誠/2 貧困は自己責任ではない
 ◇MAKOTO YUASA

 <01年、生活に困窮している人たちの自立を支援するために「もやい」(東京都新宿区)を設立し、アパート入居時の保証人になったり、生活保護の申請をサポートしている。もやいの名は船と船をつなぎ合わせることを意味する「舫(もや)い」から取った>

 これまでに1000人を超える人の生活保護の申請に同行しました。福祉事務所に行くと、申請をさせたくない職員にあれこれ言われますが、ほとんど口は挟みません。最初に生活保護を「取ってもらった」と思うと、その後も応援に頼ってしまう。でも、一生付いていてあげることはできないし、どこかの段階から本人が頑張るしかないんです。だから、自分で申請して取ったという形を残してあげたい。それが、こだわりです。

 制度に詳しい人が同席していれば、職員もよほどのことがない限り申請を拒めません。いつも本人の隣に黙って座り、ちゃんとやり取りを聞いてますよと、オーラを出しているつもりです。心の中では大丈夫かなと心配していることもあるんですけどね。

 <設立から8年。活動が評価され、福祉事務所とは電話で生活保護の申請について相談できるようになった。一方で、忘れられない相談者がいる>

 4年ほど前、「カイさん」という男性が、SOSを出して来ました。47歳だったかなあ。生活保護を受けて仕事を探したけど、不採用ばかりです。実は1社から採用通知が届いていたんですが、もともと気が弱いし、どうせダメだと思い込んでいて、通知の内容を確認していなかったんです。そのことを知った福祉事務所の担当者はかんかんに怒り、カイさんの保護は打ち切られてしまいました。

 <再び生活保護を申請するために、福祉事務所に同行した>

 「のこのこ申請に来るとはどういうことだ」。カイさんにも落ち度があったとはいえ、案の定、職員にひどい言い方をされました。どうしようか迷っているうちに、カイさんは気持ちが切れてしまい、申請書を出せないまま席を立ってしまいました。「あんなふうに言われるなら、もういい」と言うんです。

 また相談しようと帰り際に約束しましたが、それっきり連絡が途絶えてしまって。アパートを2度ほど訪ねましたが、帰っていませんでした。やっぱり口を挟むべきだったのかな。痛恨の思い出です。支援というのは、どこまで口を出すべきものなのか。何年やっても分かりませんね。

 <見えにくい現場の実態や背景を説明した論文「格差ではなく貧困の議論を」を06年に発表、翌年には「貧困襲来」という著書にまとめ、貧困の「可視化」を図る>

 構造改革を進めた竹中平蔵さんが「格差ではなく貧困の議論を」「社会的に解決しないといけない大問題としての貧困はこの国にはない」と発言しているのを知り、刺激を受けました。前段はその通りだけど、最後が違う。この人は現実が見えていないんだろう。じゃあ、教えてやろうと。

 ただ、貧困という言葉を使うことには抵抗がありました。05年に出版した「本当に困った人のための生活保護申請マニュアル」(同文舘出版)では一言も使っていません。生活に困窮している人たち自身が嫌がると思ったからです。なぜ嫌なのか。「本人が悪い」というイメージで語られることが多いからではないか。だったら「貧困は自己責任ではない」とはっきり打ち出せば、受け入れてもらえる。自分なりに、そう結論付けました。

 <行政との貧困対策を求める交渉の場や、メディアの前では、感情を表に出さず理詰めで語る>

 ああいう場所では、なかなかすきを見せられませんよね。演出しているつもりはないんですが、プレッシャーを肌で感じると、どうしても、ああいう表情や態度になってしまう。私、別に問題を解決するための答えを持ってるわけじゃないんです。みんなでいる時は「オレもよく分かんないんだよね」って気楽に言えるけど、テレビの前でなかなかそうは言えないし。そういうプレッシャーもあるんですよ。

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 聞き手・木戸哲/「時代を駆ける」は月~水曜日掲載です。

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 ■人物略歴
 ◇ゆあさ・まこと

 NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長。東京都生まれ。東京大大学院在学中から渋谷で野宿者支援に携わる。40歳。

毎日新聞 200969日 東京朝刊


時代を駆ける:湯浅誠/1 派遣村、あふれる人波「やるしかない」
 ◇MAKOTO YUASA

 <09年の正月、東京・日比谷公園に開設されていた「年越し派遣村」は、約500人の失業者や路上生活者であふれ返った。収容しきれない人々を前に、村長を務めた湯浅さんは宿泊場所を確保するために奔走した>

 正直に言うと、とんでもないことになったと思いました。緊急避難場所が必要になり、開村3日目の1月2日に、副厚生労働相の大村秀章さんに携帯電話を掛けて「このままでは日比谷がテントで埋まるよ」と伝えたんです。そんなことは、戦後の混乱期以来なかったはずです。大村さんに「なんとかする」と言われましたが、いろいろな案が浮かんでは消えていきました。

 民主党本部や議長公邸という話も出ましたし、社民党本部の入る社会文化会館、共産党の地区の会館という案もありました。細い一本の線をたどるというより、あちこちから話があり、整理するのが大変なくらい、何本も線が伸びてきた感じでした。現場の切り盛りをボランティアの人たちに任せて、バタバタと対応に追われました。どこもなかなか確定しなかったので、不安といえば不安でしたね。

 <日が沈み、ようやく決まった宿泊場所は思いもしない場所だった>

 夕方の5時ごろ、最有力だった千代田区の体育館がダメになり、その一方で中央区からはOKの返事が来ました。そうこうしていたら、6時ごろ大村さんが電話で「厚労省の講堂を開ける」と伝えてきて。講堂ってどこって感じでしたが、実際に開放された時は、ほっとしましたね。政治を動かしたなんて言われましたが、あそこまでは作ろうと思って作れるもんじゃないですよ。

 <事前の入村者の予想は200人だった>

 もともと、派遣村を計画したのは、弁護士や労働運動に取り組む活動家の人たちです。初めて計画を聞いた時は「本当にそんなことやるんですか」という感じでした。年末年始は休むと決めていたし、初日と最終日だけということで側面支援的に村長を引き受けたんです。

 日比谷公園周辺の路上では、100人ほどの人が生活しています。路上生活者の支援に携わってきた自分の常識から言えば、なじみのない場所には人は簡単には集まって来ません。派遣切りに遭った人もあの辺りにはいないから、せいぜい50人。だから、200人分も用意すればどうやっても余るだろうと話していました。

 <そんな予想を超えて人の波が押し寄せた>

 無論、派遣切りされてホームレスになる人は増えていましたし、支援は必要だと思っていましたが、路上の越年拠点が一つ増えるという感覚ですよね。初日は予定通り家に帰ったんですが、元日の夜に「いっぱいになった」と電話があって。えらい計算違いでしたが、やるしかないと決めました。職を失い、地方にいられなくなった人が逼迫(ひっぱく)して大都市を目指す。その圧力がこちらの想像以上だった。メディアの反応も予想以上でした。

 <6日間の開村期間中には、ハプニングもあった>

 初日に村に来た男性に殴られたんです。年越しだったし、お酒を振る舞ったんですが、酔っぱらってけんかが始まって。プロレスラーみたいな体格だったんで3~4人で止めに入ったんですが、左ほおをぶったたかれて眼鏡が吹っ飛んで。2日夜に厚労省の講堂が開くころまで腫れてました。

 やっぱり現場では体を張りますよ。でも、ああいう場所で、みんなとわいわいやってるのが好きなんですね。いいなと思いましたよ。ああいうところに寝泊まりして、結局、帰らなくなっちゃうんですよね。

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 聞き手・木戸哲/「時代を駆ける」は月~水曜日掲載です。

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 ■人物略歴
 ◇ゆあさ・まこと

 NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長。69年4月23日、東京都生まれ。東京大法学部から東大大学院に進み日本政治思想史を専攻。研究者を目指しながら、渋谷で野宿者支援に携わる。01年に「もやい」を設立。03年に活動家として生きることを決め、大学院を退学した。「反貧困ネットワーク」事務局長。

毎日新聞 200968日 東京朝刊
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